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■45645 / inTopicNo.1)  Re[88]: つれづれなるままに 22
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/04/04(Sat) 17:30:40)
    No45604で、
    No45538のBの、〔デカルトの道〕についてのわたしの見えができたので、つぎにフッサールの〔新しい道〕を考えて見てるとこ。

    フッサールの「生活世界」、「日常生活における世界経験」とか「日常生活の経験世界」ってわたし見たんだけど、
    ちょっとまとめて見たよ。

    フッサールは、
    No45451(Hu-L1)で、「日常の実践的な生活」
    No45499(Hu-L5)で、「日常的人間」
    って言ってる。
    メルポンのを見てみると、
    No45259で「人間的実存」
    No35001で「日常的実存」とか「生活的実践」
    No18818で「自然的人間」
    No45451(Me-L2)には、 「自然的世界概念」あるいは「生活世界」
    ってある。
    こういうの、だいたい同じようなんだとわたし見てる。
    で、これらをまとめて、

    (AFL)〈日常生活を生きる自然的素朴な人間的世界経験(経験的世界概念)〉

    ってしようかな、っていまんとこ思ってる(ちょっと長いけど)。
    こんな感じのをフッサールの言う「生活世界」のことってして見るわけね。

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■45642 / inTopicNo.2)  Re[87]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/04/04(Sat) 08:34:02)
    見たいとこ当たってた。
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■45641 / inTopicNo.3)  Re[86]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/04/04(Sat) 08:32:12)
    ちょっとわたしの記述の番号の確認のために、

    No18818 

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■45604 / inTopicNo.4)  Re[85]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/29(Sun) 18:21:28)
    現象学の、抜粋だけでよさそうなんだけど、わたしに思われたのをちょっと書いとくね。

    No45558は、
    No45538のBの、〔デカルトの道〕、〔新しい道〕に関係してる、ってわたし見てる。
    No45549のペイントしたのも見ながら、

    まず、「デカルトの道」の〔客観的諸学←エポケー→超越論的自我(主観性)〕
    っていう道について、Bの、
    (D)〔自然的態度にもとづく客観的学問の領域からエポケーを通じて一挙に超越論的自我へ到達するような手続きを「デカルトの道」と呼び〕
    っていうところ、

    わたしの見えを書いて見るよ。

    (1)フッサールの場合、「自然的態度の素朴的意識」には、「日常的人間の」と「客観的諸学の」とがあるみたいなので、〔自然的態度にもとづく客観的学問の領域〕っていうふうになってるんだと思う。

    (2)〔超越論的自我〕、これを「ego cogito」(考える我)ってして見るのね。

    (3)〔エポケー〕を「反省」ってして見るのね。
    この「反省」っていうの、デカルトの「方法的懐疑」(ms)を、フッサールは「現象学的反省的方法(現象学的還元−エポケー)」(mi)に置き換えて見てるんだと見てる。
    わたしのばあい、(ms)を〈否定を前提とした懐疑の方法〉っていうイメージがあって、
    (mi)の方の「エポケー」は〈否定も肯定もしないままにしておく〉っていうイメージがあるのね←No45485(Hu-L4)。
    で、いずれにしても(ms)も(mi)も、「反省っていう方法」っていう意味で「反省」ってしてるよ。

    ってして、

    No45557の(D1)から (D)を見て行って見ると、

    (D-A)デカルトは大きくなるにしたがって〔客観的学問〕(oa)を学んでいくのね。(oa)から「幾年か前に〈あるとき〉)」反省し始めたのね。「幼少の頃〈自然的態度の素朴的意識〉の」を。そして「ego cogito」(考える我)に到達した。

    こんな感じのをフッサールは「デカルトの道」って言ってるんじゃないかな?

    フッサールの「超越論的自我」とか「超越論的主観性」っていうの、カントの、
    No44106の(NtS)からわたしが見た、「自我」=作用体=「超越論的統覚」、のことじゃないかな?って見てるんだけど、
    ただ、
    No11393にあるように、フッサールはカントの「超越論的統覚」っていうのを、〈より高次における統覚〉の方を指して言ってるんじゃないかな?
    そして、
    (2)のようにして見ると、フッサール、〈考える我〉を「超越論的統覚(作用体としての自我)」(より高次における統覚)として見てるのかも?

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■45596 / inTopicNo.5)  Re[84]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/28(Sat) 19:29:37)

    世界は間(相互)主観的に構成される

    なんか、ふと、ね。
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■45587 / inTopicNo.6)  Re[83]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/27(Fri) 20:07:45)
    No45585のつづき、メルポンの。

    現象学辞典の「生活世界」のなかに、IV 生活世界論の影響と展開、のところに、
    (Maf)―――――――――――――
    この「基礎づけ主義」の破綻をフッサールの生活世界論の中に明敏に見て取ったのは、「還元の最も偉大な教訓とは、完全な還元は不可能だというということである」[PPVIII]と喝破したメルロ=ポンティであった。
    彼は伝統的な反省哲学の誤謬を厳しく批判しつつ、生活世界と還元との関係について次のように述べている。
    「フッサールはその後期哲学において、すべての反省は生活世界の記述に立ち帰ることから始めねばならないということを認めている。しかし彼はこれに付け加えて、生活世界の諸構造はそれはそれでまた第二の〈還元〉によって普遍的構成の超越論的流れの中に置き戻されねばならず、そこでは世界のすべての暗がりに光が当てられることになる、と述べている。けれども、可能なのは次の二つのうち一つだということは明らかである。すなわち構成によって世界が透明になるか、それとも構成が生活世界のうちの何物かを保持し続けるか。前者の場合には、なぜ反省が遠回りをして生活世界を経由する必要があるのか理解できなくなるし、後者の場合には、構成は生活世界から決してその不透明さを剥ぎ取ったりはしないことになる」[PP419n]。
    当然にも、彼は第二の還元を退け、『知覚の現象学』の中では生活世界における世界経験の具体相を身体的主観の働きを軸にして緻密に記述することに終始したのである。さらに彼は晩年の研究ノートの中に、「フッサールがたどった道を通って野生の、ないし生の〈存在〉を開示し、われわれが開かれている生活世界を開示すること」[VI237]と書きつけている。これを見れば、メルロ=ポンティが構想したまま中断した存在論が、生活世界論の徹底化という方向を目指していたものであることを知ることができる。
    ―――――――――――――――――
    いまはフッサールの「生活世界」についてなので、メルポンのこのところについてはまた後で見てくつもり。

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■45585 / inTopicNo.7)  Re[82]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/27(Fri) 19:00:20)
    わたしのお喋りあっちこっちしてるけど、
    No45538の(Hu-L7)@のところ。
    フッサールの課題に〔学問の究極的基礎づけ〕っていうのがあるみたいなんだけど、
    〔学問の「究極的基礎づけ」というプログラムは破綻せざるをえないであろう〕
    ってある。
    「学問の基礎づけ」、
    No41741『デカルト的省察』のなかにあったので書き出しておく。
    (af)―――――――――――
    こうして、私たちそれぞれが独自に、自ら根本から哲学を始める者となる決意をもって、これまで通用してきたすべての確信と、とりわけすべての学問とを働かせないことから、新たに始めることにしよう。
    私たちの省察を導くものは、デカルトの場合と同様、根本的な真正さにおいて基礎づけられるべき学問、そして最終的には一つの普遍的な学問(1)、という理念である。(P26)
    訳注(1)デカルトは、学問を「一本の樹」に喩えていた。「哲学全体が一本の樹のようなもので、その根は形而上学、幹は自然科学、この幹から出る枝は他のすべての諸学で、これは大別して三つの主要な学、すなわち医学、力学および道徳にまとまられます。」(『哲学の原理』仏訳者への手紙)に出てくる「普遍学」という構想も、ここから由来する。
    ―――――――――――――
    ってあった。
    (Hu-L8)の、〔基礎づけるものであり基礎づけられるものである〕っていう〔生活世界の二義性〕
    っていうのは見とうとして、

    わたしここらへんは興味ないから、このぐらいでいいとして、メルポンのがあったので次にそれを書き写すね。

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■45574 / inTopicNo.8)  Re[81]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/24(Tue) 18:30:44)
    ちょっと想い出したので、
    No41741『デカルト的省察』の訳注に、
    (E)「生活世界」――――
    Erfahrungwelt:本書では、これまで「周囲世界」とか「生活の周囲世界」と呼ばれていたものと基本的には同じと考えられる。それが一方では、本書第七節にも見られるように「自然的態度の世界」として捉えられていると同時に、他方では、本書第58節の「生活世界」を経て、『危機』でも「生活世界」の議論につながっていく。
    ―――――――――――p292
    っていうのがあった。
    「生活世界」っていうの「世界」のことみたいね。しかも「世界知」についてのような気がしてる。
    世界の、〈科学のように客観的に見られた世界〉(科学の客観世界)とか〈日常的人間の経験によって見られた世界(自然的態度の世界)〉(日常生活の経験世界)、みたいな?

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■45569 / inTopicNo.9)  Re[80]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/23(Mon) 18:08:12)
    akaimiさん、ありがとございま〜す。

    >高市首相“停戦合意までは派遣困難”の認識伝えトランプ大統領が理解示す<

    「憲法9条による制約」があってよかったよね。
    もしそうでなかったら、殺人者に言いなりになって、自衛隊の人たち(日本国民)を戦地に行かせ命を危険にさらさせることなったかもしれないのだもの。

    あと、自衛隊派遣について、停戦合意までは”っていうの条件なんだと思うんだけど、「停戦合意」って”双方の“のよね。「停戦合意できた」って、政府のひとたち、何をもって判断するのかしらね。


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■45562 / inTopicNo.10)  Re[79]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ akaimi -(2026/03/22(Sun) 18:06:00)
    悪魔ちゃん、こんばんは! お邪魔します。
    以下は、朝にたまたまヤフーの記事で見て、コピーしてたものからです。
    私は、高市総理、トランプ氏を支持でも不支持でもないけど、この人たちの間でのやりとりは、忖度ばかりではないとはこの記事からは感じられたの。
    この記事だけからわかることは一部分ではあるとも思うけど、参考までに貼らせてね。

    それからスルーいただいてもぜんぜん大丈夫です!


    ………
    【独自】高市首相“停戦合意までは派遣困難”の認識伝えトランプ大統領が理解示す 3/21(土) 21:55 Yahoo!ニュース 2121+解説





    会談の出席者によりますと高市首相は、正式な停戦合意までは自衛隊の派遣は難しいとの認識を伝え、トランプ大統領も、こうした日本側の説明に理解を示したということです。 また複数の政権幹部は、高市首相が自衛隊の派遣は難しいと説明する際に、憲法9条による制約があることにも触れたとしています。 トランプ大統領は日米首脳会談後の20日、FOXニュースの取材の中で、「日本は必要とあれば支援してくれるだろう」としつつも、「日本には憲法上の制約がある」と発言しています。 日本は第2次安倍政権の2019年に中東情勢が緊迫した際、アメリカ主導の有志連合には参加せず、情報収集活動を行う名目でホルムズ海峡以外の近海に自衛隊を派遣しました。 高市首相は首脳会談前の国会答弁で、「安倍総理のころには1回、日本国憲法の内容等について丁寧に説明をしたり、できないことはできないということをはっきり申し上げた、といった経緯はある。もしも忘れておられたら、しっかりとお伝えをしていく」と説明していました。
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■45561 / inTopicNo.11)  Re[78]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/22(Sun) 17:55:17)
    そこはかとなく

    タカ高ちゃん、〈ギブムミーチョコレート〉人でしかなかったみたいね。

    あ、他の科でも似たり寄ったりかな?
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■45558 / inTopicNo.12)  Re[77]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/22(Sun) 08:32:44)
    No45557に補足して、
    デカルトの「我(エゴ)」についてフッサールが語っているのがあるのでちょっと書き出しておくね。

    フッサールの『デカルト的省察』から、
    (Huts)―――――――――――――
    しかしおそらく、デカルトが超越論的な我(エゴ)を発見した時、それとともに、認識を基礎づける新しい理念、すなわち、超越論的基礎づけという理念も開かれるのだ。実際私たちは、〔超越論的ではなく〕超越的な主観性(1)に導くはずの推論のために、疑いの余地がない前提として、我思う(エゴ・コギト)を利用しようとしているのではない〔デカルトがしたのは、それであったが〕。そうではなく、現象学的な判断停止(エポケー)が(省察する哲学者としての私に)、まったく新しい無限の存在の場を、まったく新しい超越論的経験(2)の場として開示する、ということに注意を向けるのだ。
    ―――――――――――――――――(p59−60)
    訳注――――――――――――――――
    (1)デカルトはせっかく発見した「思う〔思惟する〕我」を「世界の小さな末端」である「人間としての我」と捉えてしまった。それは、フッサールの言う「超越論的な主観性」を捉え損ない、世界内部の「超越的な主観性」としてしまったものである。
    (2)「超越論的」という用語は、カントにおいては、「先験的」とも訳されることに見られるように、「経験的」という用語と対立するものでもあった。したがって、「超越論的経験」(あるいは、「先験的経験」)という言い方は、カントの用語法から言えば、矛盾する奇妙な言い方である。しかし、フッサールにとっては、「超越論的主観性」は「経験」の場を離れたところにあるわけではなく、あくまでも「経験」という場のなかで機能しているものとして見いだされるのであり、そのような問いの場こそが「超越論的経験」と呼ばれている。
    ――――――――――――――――――(p295)

    こうなってくるとごちゃごちゃしてよくわかんなくなってくるんだけど、
    ひとまず、
    デカルトは〈考える我〉っていうのを発見した、ってフッサールは見てるみたい。

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