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168時間以内に投稿された新着記事


■37273 / )  オマケ 2
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/08(Wed) 21:42:32)
    鈴虫寺の人気は和尚さんの法話にもあるのかも知れないけれど、一番はやはりそこにいらっしゃるお地蔵さまで、幸福地蔵と呼ばれています。お地蔵さまは普通裸足なのですがここのお地蔵さまは草鞋を履いていて、そういうお地蔵さまは日本全国ここだけだそうです。願掛けをするとその人の所まで来て願いをかなえて下さるのだそうで、和尚さんの話によると、お願いするときは自分の住所も唱えて下さいとのことでした。


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■37272 / )  本屋日記
□投稿者/ pipit -(2024/05/08(Wed) 16:14:51)
    前にうましかさんの記事を見て、「出たんや!」と知った、御子柴善之先生の実践理性批判の解説本、本屋さんにあったので買いました。
    でも読めるのいつかなぁ(^◇^;)

    中山元先生訳の『判断力批判』上下も発見!
    迷ったけど、今日は買いませんでした。

    買っとけばよかったかなー

    でも『判断力批判』まで辿り着ける気がしないからなー(遠)

    カント著『判断力批判』中山元先生訳、光文社古典新訳文庫
    https://www.kotensinyaku.jp/news/007010/

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■37271 / )   内外日記2
□投稿者/ pipit -(2024/05/08(Wed) 09:10:02)
    2024/05/08(Wed) 09:18:07 編集(投稿者)

    No37255に返信(pipitさんの記事)
    > ナーマ(名)や、受想行識が、内なる感性界で、
    >
    > 色 が、外なる感性界、ってみてみるのもおもしろいかな、って。
    >
    > 全然勘違いしてるかもですけどね(^_^;)<

    うましかさんのおかげでpipitの勘違いに気づけました。

    さらにカント哲学とは切り離しての話ですが、
    パーリ経典でも仏教用語の『色』に内外の区別が言及されていることにも改めて気づけました。

    No37161 Bhikkhu Sujatoさまの英訳
    internal or external;

    No37164 Bhikkhu Bodhi様の英訳
    internal or external,

    No37165 関西パーリ語実習会さまの日訳
    内なるものも、あるいは、外なるものも、

    そしてきわめつけは、、、、
    No37162 英訳のpipit日訳...
    内、あるいは外;


    自分で、『色』に関して『内、あるいは外』と訳していましたー
    。゚(゚´ω`゚)゚。身についていませんー(泣)

    うましかさん見直すきっかけをありがとうございます!
    (o^^o)カンシャー♪
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■37270 / )  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/05/07(Tue) 23:36:58)
    うましかさん、こんばんはー書き込みありがとうございます!

    No37263
    > "aussere Sinnenwelt"は、手持ちの英訳本をみると、"the external world of sense"とか"the external world of the senses"、他に"the outer sensible world "と訳されています。
    >
    > 外的な感覚世界とか訳せばいいのかな…(;´・ω・)<

    外のものを(として?)感じる、内のものを(として?)感じる、区別ということなのかなぁ...

    > ところで、カント事典の「感官 Sinn」の植村恒一郎による解説(p.77〜p.78)によれば、カントの場合、"Sinn"は感覚器官(「感官」)の能力の意味で使われているとのこと。<

    カントは『能力』の意味で使っているのですね!
    やっぱり(?)よく考えて言葉を使っているんだなぁという感想が起きました。
    実体の有無は保留するにしても、能力が働いていることは確かなこととして言えそうですもんね。

    > カント『人間学』によれば、Sinnlichkeit(感性)は、「感官」によるものと「構想力」によるものの二つに分けられ、<

    そうなんですね、知りませんでした!
    感官が受動の感性で、構想力が能動の感性なのかなぁ、、、

    >「感官」とは「対象が現にあるのを直観する能力」であり、さらにそれは、外部感官(外官) "ausserer Sinn" と内部感官(内官)"innerer Sinn "に分けられる、と。<

    外・内ともに「対象が現にあるのを直観」という点において平等に扱っているんですね。

    > 以下は続く植村の解説からの引用です。
    >
    > >「外官」は、人間の身体が物体的なものによって触発される感官であり、「内官」は、「人間の身体が心によって触発される感官」であるが、<

    触発されるのは身体で、触発するのが物体的なものか心か、で外官か内官かに分けてる、、


    >快や不快を感じるのは、それとは別の「内面的な」感官とされる[同]。<

    内面的な感官は、、、何に触発されるのかな??

    > ちなみに植村が参照しているのはカント『人間学』§15
    >
    >
    >
    > おかげで勉強になりますm(__)m
    >
    > 取り上げていただき、ありがとうございました! (・∀・)♪<


    こちらこそ本当に感謝ですm(_ _)m


    > 【追記】
    >
    > No.37244 にも出ていたJ.ロック『人間知性論』を意識しているのかな(;´・ω・)<

    ロックといえば冨田恭彦先生のことを思い浮かべました、、、


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■37269 / )  返礼
□投稿者/ パニチェ -(2024/05/07(Tue) 19:04:24)
    こんばんは、アートポットさん。

    No37254に返信(アートポットさんの記事)
    > こんばんは、パニチェさん

    > トピック建立ありがとうございます。m(__)m マッタリ福祉ライフを綴って行きます。ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。

    どういたしまして。
    はい、アートポットさんなりのペースでもってマッタリと綴って下さい。
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■37268 / )  Re[2]: 温情型自由主義を生きる part3
□投稿者/ アートポット -(2024/05/07(Tue) 18:59:40)
    ドリームくじ購入直後に、プレミアムうまい棒にて。忘れないようににて。ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
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■37267 / )  オマケ
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/07(Tue) 10:28:19)
    2024/05/07(Tue) 20:06:55 編集(投稿者)

    左上 苔寺
    左下 ハネ太鼓
    右上 スミレと揚羽蝶
    右下 発酵御膳
1000×1000 => 600×600

ryokoushasin.jpg
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■37266 / )  6日の日記 
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/07(Tue) 09:51:39)
    2024/05/07(Tue) 16:31:54 編集(投稿者)

    6日、錦市場へ朝ごはんを食べにいく。店は決めていなかったが8時前に開けている店が少なかった。焼き魚定食とかをイメージしていたのだが入ったのはこじゃれた店で発酵御膳というものを食べた。

    苔寺へ行く。四条からバス1本で行けた。京都のバスの良い処はどこまで乗っても1乗車230円ということ。慣れない人や外人などにはこのシステムは便利だ。
    入場に写経がセットになっていて内心びくびくしていた。何故なら般若心経だと約270字あり、毛筆で書く自信は全くない。しかし、実際にはもっとずっと短い経文をしかも下書きをなぞる形式だったので簡単にこなせた。筆は毛筆は毛筆でも毛筆ペンだったので助かった。考えてみれば、外人が多く訪れるのだから難しくする訳はないのだ。

    ここにも青もみじががたくさんありやはり思った通り自然光の青もみじの方がずっと良かった。
    このもみじの葉が冬には全部苔の上に落ちる訳だから掃除が大変でしょうと受付の人に聞いたら、なんと冬の間は掃かないのだそうだ。そのようにして苔を寒さから守るとのこと。なるほどと思った。それにしても見事な苔庭園であった。

    そのあと近くの鈴虫寺へ行った。大広間に一同集められて和尚さんの講話を聞く。この大広間には鈴虫が飼われていて1年中鳴いている。全部で3000匹ほどいるそうだ。
    この和尚さんの話が中々面白かった。我執、利他、話し合いよりも聞き合い、和敬清寂などの話をされたが、なかでも即今只今の話が良かった。今できることを精一杯やるだけ、という意味。概ねボクの生き方に近い。ボクはそれを自分より上手い演奏家が掃いて捨てるほどいる世界でめげずに生きていくための礎として習得したが、例えば小澤征爾もその日その日の演奏にベストを尽くす、その積み重ねというようなことを言っている。

    バスで京都駅へ。伊勢丹にあるラーメン横丁で博多ラーメンを食べ、予定ではそのまま帰ることにしていたが、京都国立博物館で雪舟展をやっていることを思い出したので観に行くことにした。
    雪舟は良い。独自の墨絵の世界を確立している。後の日本の多くの絵師が手本にしている。雪舟を手本にして描いた後世の絵師の手によるよく似た絵が沢山展示してあって興味深かった。芸は師を真似ることから始まることがよくわかる。

    2泊3日の旅行もこれでおしまい。9時ころ自宅に戻った。

    写真は上が北野天満宮のライトアップの青もみじ、下は苔寺の自然光に青もみじ。
666×1000 => 400×600

aomomiji.jpg
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■37265 / )  5日の日記 
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/07(Tue) 08:56:28)
    2024/05/07(Tue) 08:57:04 編集(投稿者)

    5日朝、東京から京都へ向かう。昼前に京都に着き、JR京都伊勢丹で先日買い裾上げなどをしてもらったスーツを受け取る。実は3月の放送大学の卒業式に着ていこうと思っていたスーツが、前日に出してみたら虫食い。ガーン!しかも襟の部分。(T_T)。仕方なくタキシードにした。タキシードはボク的には仕事着なので、本当はスーツで出たかった。

    その後一旦ホテルに荷物を置いて三条近くにある豆水楼という豆腐専門店へ。川床の席を予約していたが、5月と言うのにもう日差しが強くて風が吹けば良いのだが暑かった。

    3時から祇園花月。新喜劇は茂造じいさんモノ。辻本さん、座長を降りてから茂造じいさんをあまりやらなくなったので久しぶりに笑えた。前半の漫才、テンポの良い会話に耳がついて行けず、周りが笑っているのに笑えないことがあった。歳を感じる。。。

    よしもと終了後、青もみじのライトアップをやっているというので北野天満宮へ行く。ライトアップされた青もみじ、ライトが黄色味を帯びていて青モミジが黄緑に見え、日中みる青もみじの方がきれいだと思った。

    ホテルに戻り、近くのラーメン屋へ行く。
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■37264 / )  Re[10]: うましかの密かな楽しみ(・∀・)
□投稿者/ うましか -(2024/05/06(Mon) 23:51:29)
    >明日はボクシングSB級統一王者の井上尚弥に、ルイス・ネリが挑戦! (/・ω・)/

    やっぱりネリは恐かった(;´Д`A ```

    でも井上は、さらに恐かった(ToT)/~~~おそろしやー









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■37263 / )  pipitさん、こんばんはー(・ω・)ノ
□投稿者/ うましか -(2024/05/06(Mon) 23:22:34)
    2024/05/07(Tue) 00:12:12 編集(投稿者)
    2024/05/07(Tue) 00:01:22 編集(投稿者)

    No.37255 (pipitさん)

    "aussere Sinnenwelt"は、手持ちの英訳本をみると、"the external world of sense"とか"the external world of the senses"、他に"the outer sensible world "と訳されています。

    外的な感覚世界とか訳せばいいのかな…(;´・ω・)

    ところで、カント事典の「感官 Sinn」の植村恒一郎による解説(p.77〜p.78)によれば、カントの場合、"Sinn"は感覚器官(「感官」)の能力の意味で使われているとのこと。

    カント『人間学』によれば、Sinnlichkeit(感性)は、「感官」によるものと「構想力」によるものの二つに分けられ、「感官」とは「対象が現にあるのを直観する能力」であり、さらにそれは、外部感官(外官) "ausserer Sinn" と内部感官(内官)"innerer Sinn "に分けられる、と。

    以下は続く植村の解説からの引用です。

    >「外官」は、人間の身体が物体的なものによって触発される感官であり、「内官」は、「人間の身体が心によって触発される感官」であるが、快や不快を感じるのは、それとは別の「内面的な」感官とされる[同]。<

    ちなみに植村が参照しているのはカント『人間学』§15



    おかげで勉強になりますm(__)m

    取り上げていただき、ありがとうございました! (・∀・)♪

    【追記】

    No.37244 にも出ていたJ.ロック『人間知性論』を意識しているのかな(;´・ω・)




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■37262 / )  Re[49]: 中部経典62『大ラーフラ教誡経』
□投稿者/ pipit -(2024/05/06(Mon) 22:48:09)
    さて、釈尊から直接アドバイスの言を受けたラーフラ沙弥、、、
    托鉢に行く途中だったけど、、、

    Then Rahula thought, “Who would go to the village for alms today after being advised directly by the Buddha?” Turning back, he sat down cross-legged at the root of a certain tree, setting his body straight, and establishing mindfulness in his presence.

    、、、いやいや托鉢してる場合ではないぞ、精進します!瞑想します!
    と木の下で坐られるようですよ、、、

    日訳は後ほどチャレンジします。
    今日はおやすみなさい!(あら、ラーフラさまと正反対(-。-;)
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■37261 / )  Re[48]: 中部経典62『大ラーフラ教誡経』
□投稿者/ pipit -(2024/05/06(Mon) 22:39:55)
    No37260

    >一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです」<

    とお釈迦さまから教えていただいたラーフラ沙弥は、
    「世尊(せそん)、形態(色)だけですか?善逝(ぜんぜい)、形態(色)だけですか?」とお尋ねしたら、

    お釈迦さまは、五蘊それぞれについてもそうだよ、とお話されたのですね。

    Bhikkhu Sujatoさまの英訳、関西パーリ語実習会さまの日訳では、

    色---form---形態
    受---feeling---感受〔作用〕
    想---perception---表象〔作用〕
    行---choices---諸々の形成〔作用〕
    識---consciousness---識知〔作用〕

    と訳されていました。
    これら全てが、
    >『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです<
    と。
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■37260 / )  Re[47]: 中部経典62『大ラーフラ教誡経』
□投稿者/ pipit -(2024/05/06(Mon) 22:19:32)
    2024/05/06(Mon) 22:20:32 編集(投稿者)

    みなさま、こんばんは(^ ^)
    続きです。

    “Only form, Blessed One? Only form, Holy One?”
    “Form, Rahula, as well as feeling and perception and choices and consciousness.”



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■37259 / )  Re[28]: 脳の行方1
□投稿者/ パニチェ -(2024/05/06(Mon) 18:21:17)
    No37258に返信(おくたがわさんの記事)

    > 説明ありがとうございます。

    どういたしまして。

    > 横で同じ投稿者に関する話を始めてすみません。
    > 大事な論点はかぶらないのでご容赦ください。

    全然大丈夫です。
    論点がかぶる部分も含めておくたがわさんの総括を読みたいのでよろしくお願いします。


返信/引用返信 削除キー/

■37258 / )  Re[27]: 脳の行方1
□投稿者/ おくたがわ -(2024/05/06(Mon) 18:10:07)
    No37219に返信(パニチェさんの記事)
    > おはよう、悪魔ちゃん。横レス失礼!
    >
    > ■No37218に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    >>ねえ、おくったがわさん、
    >
    >>その後どうなったの?
    >
    > 私の進化論関連の月蛇(moonlight_serpent)とのバトルも3〜4年続いたので先の投稿からまだまだ続くんだけど。。。
    >
    > 同様におくたがわさんvs月蛇も、1年近く?あるいはそれ以上?続いたので、今後何回かに分けて投稿されると思います。
    > おそらく。。。

    説明ありがとうございます。
    横で同じ投稿者に関する話を始めてすみません。
    大事な論点はかぶらないのでご容赦ください。
返信/引用返信 削除キー/

■37257 / )  Re[26]: 脳の行方1
□投稿者/ おくたがわ -(2024/05/06(Mon) 18:02:56)
    No37218に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    悪魔ちゃん、こんばんは。反応遅くてごめん

    > ねえ、おくったがわさん、
    >
    > その後どうなったの?

    その後、パニチェさんも書いてるように長く大変なことになったので、整理してゆっくり続けようと思います。
    返信ありがとう。
返信/引用返信 削除キー/

■37256 / )  Re[55]: 虎に翼
□投稿者/ akaimi -(2024/05/06(Mon) 12:49:34)
    2024/05/06(Mon) 12:56:48 編集(投稿者)

    虎に翼という言葉、おそらく出典は古代中国の思想家の誰かの言葉で、「鬼に金棒」的な意味合いなんだろうな、って想像してて。
    少し調べてみたところ韓非子からなのだそうです。


    https://getnews.jp/archives/3293933


    「虎のために翼をつくることなかれ」とあるそうで、もともとは愚かなものに権力を持たせることを諫める言葉だったのだそうです。
    現代ではやはり、強さに強さを加える「鬼に金棒」の意味で使われているそうです。
    現代では良いほうの意味合いで使われるように変化したのですね。

    ドラマではヒロインの名前が寅子(ともこ)なのと、翼は法律の意味としてタイトルにしたのかな、と想像しています。


    ヒロインの父が拘留され自白を強要され後に無罪釈放になった共亜事件は、実際に昭和10年頃にあった帝人事件をモデルにしているそうです。
    株取引をめぐる贈収賄事件で、大臣を含む16人が逮捕され後に無罪となった事件で、時の内閣が総辞職に追い込まれた事件。

    今日観た中で印象に残ったのは、日本の統治下に当時あった韓国からの留学生の女性が兄と家で食事をする場面で、片膝を立てて食べているところです。
    とても淑やかな女性で家では行儀がよくないとして描くとしたらへんだなぁ、と思い調べてみたら、その頃の韓国では、民族衣装のチマチョゴリの裾を美しく見せるためにそのように座っていた、と知りました。
    あの座り方はどうしてなのだろう?と関心をもってもらいたいという演出だったのかも。


    虎に翼、これまで知らなかったことに触れられつつ楽しめてます。
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■37255 / )  内外日記
□投稿者/ pipit -(2024/05/06(Mon) 07:08:41)
    うましかさんの投稿に出てきた『外なる感性界〔aussere Sinnenwelt外的感覚界〕』という言葉が私には印象に残っていて、
    ふと、
    内なる感性界が[心]で、外なる感性界が[物質]と考えることももしかしたらOKかなぁ?と今朝思いつきました。

    仏教用語のナーマ(名)/ルーパ(色)の区分とか、五蘊(色/受想行識)とか、、、

    ナーマ(名)や、受想行識が、内なる感性界で、

    色 が、外なる感性界、ってみてみるのもおもしろいかな、って。

    全然勘違いしてるかもですけどね(^_^;)
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■37254 / )  Re[1]: 温情型自由主義を生きる part3
□投稿者/ アートポット -(2024/05/05(Sun) 23:58:12)
    こんばんは、パニチェさん

    トピック建立ありがとうございます。m(__)m マッタリ福祉ライフを綴って行きます。ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
返信/引用返信 削除キー/

■37253 / )  温情型自由主義を生きる part3
□投稿者/ パニチェ -(2024/05/05(Sun) 21:26:07)
    トピ主:アートポットさん

    No30566

    パターナリスティックリバタリアン(温情型自由主義を生きる)
    アーキテクチャ(建築構造と経営せん略を考える)

    よろしくお願いします。
返信/引用返信 削除キー/

■37252 / )  トピック依頼
□投稿者/ アートポット -(2024/05/05(Sun) 20:08:12)
    こんばんは、パニチェさん いつもありがとうございます。

    トピック建立依頼です。

    温情型自由主義を生きる part3

    をお願い致します。
    ゴッドファーザーpart3という映画が好きなので大文字でも小文字でも良いのでpart3をつけて下さい。よろしくお願いいたします。
    m(__)m。
返信/引用返信 削除キー/

■37251 / )  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/05/05(Sun) 16:30:15)
    2024/05/05(Sun) 16:30:52 編集(投稿者)

    うましかさん、お久しぶりです!

    No37244
    > あーもう五月にはいってしまった、、、やっとカント沼に浸かれる時間が、、、でもまた明日から、ジゴクの日々…(´;ω;`)ウゥゥ<

    おつかれさまです−
    私もできることなら一日中、本などを読んだり考えたり好きな事をしたいと思うけど、現実はしなくてはならない事がいっぱいでてきちゃいますよね
    ( ; ; )アァ

    今日はうましかさんの好きなことが、もしもできていたのなら、うれしいなと思いました♪

    > ◇ ところが、たとえア・プリオリな純粋認識の可能的演繹の唯一の様式、つまり超越論的な道をたどる演繹の様式が認められるとしても、このことによってはまさしく、この様式がかくも不可避的に必然的であるこということは明白ではない。<



    > ◇先に私たちは、空間及び時間の概念を超越論的演繹によってその源泉にまで追求し、そのア・プリオリな客観的妥当性を説明し規定した。
    >
    > ◇ にもかかわらず、幾何学は空間という根本概念の純粋で合法則的な素性に関して哲学に証明書を懇願するまでもなく、自身の確実な歩みを純然たるア・プリオリな認識を通じてたどっているのである。<

    空間概念は直観的に現実として得られるからかな??

    > ◇ しかしながら、この概念の使用はこの幾何学において〔も〕外なる感性界〔aussere Sinnenwelt外的感覚界〕にのみ関わるのであり、外なる感性界については空間はその直観の純粋形式であり、故にこの外なる感性界〔外的感覚界〕においては、全ての幾何学的認識はア・プリオリな直観に根拠づけられているので、直接的な明証性を持つ。また、その〔幾何学の〕諸対象は、その認識自身を通じてア・プリオリに(その形式に関して)直観において与えられるのである。<

    ウゥ、先ほど表を作って今抜け殻になっているので、よく考えられませんが、
    外なる感性界?
    あ、外的直観のことなのかなぁ?
    外的直観の純粋形式に根拠を持つ概念は、外的直観として表現することが可能ということ??
    全然違うかなぁ

    うましかさんはすごくお忙しそう、、、
    私は明日から仕事再開で、、、
    案外自由時間が出来ると良いんですけど、、、

    書き込みありがとうございます!
返信/引用返信 削除キー/

■37250 / )  Re[11]: パニチェの密かな楽しみ(・∀・)
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 16:01:22)
    パニチェさん、こんにちはー

    投稿ありがとうございますm(__)m

    No.37248

    >西田凌佑がエマヌエル・ロドリゲスからIBF王者を奪取!

    これは、思わずエッとびっくりしました(;・∀・)

    >サウル・カネロ・アルバレス vs ハイメ・ムンギア

    これは、今日だったんだ! とびっくりしました(;゚Д゚)

    >武居由樹がジェイソン・マロニーからWBO王者を奪取すれば

    これは、武居のパンチ力がどれくらい通用するかによってあり得るとおもっています。がんばれ武居〜

    >井上拓真 vs 石田匠

    日本人同士の戦いは、きっと熱い戦いになると期待しています! (/・ω・)/

    おまけ

    >那須川天心

    次戦次第かな。。。(;´・ω・)



    では〜(・∀・)









返信/引用返信 削除キー/

■37249 / )  図式の表を作ってみた日記
□投稿者/ pipit -(2024/05/05(Sun) 15:40:33)
    2024/05/05(Sun) 15:51:39 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは!

    No37159,37224,37226 の箇所の御子柴善之先生の訳を引用させていただきます。(pipitの日訳は間違えているかもなので…しかもNo37226は日訳もしてませんけど…)

    この箇所や前後の箇所から自分で考えて表を作ってみたので投稿いたします。
    写真はWikipediaより、カントのイラストはいらすとやさんからコピペして使わせていただきました。

    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cat_poster_1.jpg
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Grus_japonensis_in_flight_at_Akan_International_Crane_Center.jpg
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Triangle_illustration.svg
    https://www.irasutoya.com/


    (御子柴先生訳のカントの文章)※番号は御子柴先生による挿入

    『@私たちの悟性のこのような図式機能は、諸現象とそのたんなる形式にかんして言うなら、人間の魂の深みにある隠された技である。この技の本当のこつのなんたるかを、私たちがいつか自然から察知し、覆い隠されることなく眼前に捉えることは困難であろう。

    A私たちに言うことができるのは、次のことだけである。形像は、産出的構想力の経験的能力の産物であり、感性的概念の図式(空間における図形)は、ア・プリオリな純粋構想力の産物であり、いわば組み合わせ文字(モノグラム)である。形像は、こうした産物を介し組み合わせ文字をなぞることで、はじめて可能になる。したがって、形象はつねに図式---形像はこの図式の特徴を表示する---を介してのみ概念と結び付けられねばならず、それ自体ではけっして概念と一致しない。

    Bこれらに対して、純粋悟性概念の図式は、けっして形像化されえないようなものであり、もっぱら、概念一般に従った統一の規則---カテゴリーはこの規則を表現するものである---に適った純粋総合であり、また構想力の超越論的な産物である。
    この超越論的な産物は、内官一般の形式の条件(時間)に従った規定に関係する、すなわち一切の表象---それらが統覚の統一に適ってア・プリオリに一つの概念の中で連関するはずである限り---に関して、関係する。(A141f./B180f.)』
    (『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p250より引用)
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■37248 / )  パニチェの密かな楽しみ(・∀・)
□投稿者/ パニチェ -(2024/05/05(Sun) 14:15:20)
    2024/05/05(Sun) 14:44:23 編集(投稿者)

    明日のスーパーバンタム級世界統一王者 井上尚弥 vs ルイス・ネリももちろん楽しみだけど。。。

    5月4日、5日にも2日続けて凄い試合があった。

    5月4日は大方の予想を覆して西田凌佑がエマヌエル・ロドリゲスからIBF王者を奪取!4Rに左ボディを打ち込んでロドリゲスからダウンを奪い、激戦を制して予想外3-0大差の判定勝ち。

    5月5日はメキシカン同士の新旧スター対決。
    四団体世界スーパーミドル級統一王者 サウル・カネロ・アルバレス vs ハイメ・ムンギア(43戦無敗34KO)。初回から最終ラウンドまで、壮絶な打ち合いの結果、カネロの判定勝ち!


    明日の世界バンタム級ダブルタイトルマッチも見もの

    WBA王者 井上拓真 vs 石田匠
    WBO王者 ジェイソン・マロニー vs 武居由樹

    明日、武居由樹がジェイソン・マロニーからWBO王者を奪取すれば。。。。

    WBC王者 中谷潤人
    (2024年2月24日 アレハンドロ・サンディアゴより奪取)
    IBF王者 西田凌佑
    (2024年5月4日 エマヌエル・ロドリゲスから奪取)

    世界バンタム級の四団体王者を4人の日本人が制圧する歴史的な日となる。

    バンタム級には以下の強豪も控えてる
    那須川天心
    堤聖也
    増田陸

    世界バンタム級統一王者に向けた日本人同士によるサバイバルマッチがチョ−楽しみ♪

    https://www.youtube.com/watch?v=gRgXklHjHqU&t=205s

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■37247 / )  Re: 木村敏「こと」としての生と死
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 12:51:16)
    2024/05/05(Sun) 13:53:24 編集(投稿者)
    2024/05/05(Sun) 12:56:03 編集(投稿者)

    ◇ 土屋 創『カントにおける「二重の固有性」の問題』,2022年

    https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2005746

    *******

    >デカルトのcogitoがもつ「私には<私が…する>と思われる」という「主体の二重構造」っておもしろいですね(;´・ω・)〔 No.37191

    土屋論文は、カントが例えば「義務の遂行という契機において」、人間をヌーメノンとフェノメノンとしての二重の固有性において捉えたとしています。p.87の注における土屋の説明にはこうあります。

    >フェノメノン(phaenomenon)は「現象〔体〕」と訳され、感官との関係における対象を意味するとともに、実践にかかわる文脈においては、自分自身やその行為を自然法則(他律)のもとにあると考える際のそれらのあり方を意味する。他方、ヌーメノン(noumenon)は「可想体」、「本体」と訳され、感官の客観にはならない可能的なある物を意味するとともに、実践に関する文脈においては、自分自身やその行為を自然から独立した、理性だけに基づいている法則のもとにあると考える際のそれらのあり方を意味する(cf. W 452)。<

    *******

    デカルトによるCogitoの「主体の二重構造」から、後世のカントによる人間の「固有の二重性」(ヌーメノンとフェノメノン)へ。これらには何らかの関係があるのかどうか…ふと思いつきの疑問でした(;´・ω・)

    【追記】

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/itetsu/35/0/35_42/_article/-char/ja

    >長井が「発見」したように、デカルトのコギトすなわち「私が見ていると私に思われる」videre videor の中には、自分というノエシス的主体が同じく自分というノエマ的客体を(ある意味で)感じとっているという中動態的な構造が認められる、ということに他ならない。< 〔木村論文, p.43〕

    ノエシス、ノエマは↓

    https://tetsugaku-chan.com/entry/Husserl


    デカルト〜カント〜フッサール〜、、、そしてアンリ、或いは長井(;´・ω・)

    難し過ぎる… ((+_+))


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■37246 / )  Re[9]: 生成ゴースト(;゚Д゚)
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 12:27:15)
    ・もし私うましかが生前から生成AIと対話を繰り返したら、そのAIは「うましか」の思考の仕方や記憶をほぼ所有することができるような、そういう時代は目前かもしれない

    ・私うましかがやがてこの世から消滅しても、AIうましかは半永久的に存在し続けることができる、、、そうした技術はいずれ可能になるとおもわれる

    ・だが、これは私うましかが「死なない」ということではないだろう

    ・少なくともAIうましかが「うましか」と(さしあたりでも)同定されるには、対話相手である第三者の存在が不可欠だとおもわれる

    ・つまり対話相手の、例えばいのしか氏が、実はAIうましかであるうましかと話して、私うましかだと違和感なくやり取りできねばならないのではないか

    ・しかし、こう考えると、生成AIが発達すればするほど、音声や画像・動画の情報だけでは信用できない(そもそも「信用」とはなにか)

    ・けっきょく、モノ=身体回帰になっていくのだろうか?


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■37245 / )  うましかの密かな楽しみ(・∀・)
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 11:54:15)
    明日はボクシングSB級統一王者の井上尚弥に、ルイス・ネリが挑戦! (/・ω・)/




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■37244 / )  超越論的分析論\−7
□投稿者/ うましか -(2024/05/05(Sun) 11:35:24)
    2024/05/05(Sun) 11:36:06 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    お久しぶりですm(__)m


    あーもう五月にはいってしまった、、、やっとカント沼に浸かれる時間が、、、でもまた明日から、ジゴクの日々…(´;ω;`)ウゥゥ


    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに〔全ての経験に完全に依存せずに 〕対象と連関するという点においては互いに一致している。
    それら〔二種類の概念〕とは、つまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。
    これらの諸概念〔空間・時間、カテゴリー〕について、経験的〔経験による〕演繹〔根拠づけ、権利づけ〕を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の本性の特質とは、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである。
    それ故、もしこれらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう。

    ◆ しかしながら、私たちは、これらの諸概念についても、全ての認識についてと同様、それらの可能性の原理を探し出すのではない場合には、それらの産出の機会因をやはり経験において探し出すことができる。その時には感官の印象が、これらの諸概念に関する全認識能力を活動せしめ、経験をせしめる最初の機縁を与える。
    この経験は、二つの極めて異種的な要素、すなわち、感官に基づく認識のための実質〔質料〕≠ニ、純粋な直観〔作用〕及び純粋な思考〔作用〕の内的源泉に基づきこの実質〔質料〕を秩序づける、或る種の形式≠ニを含んでいる。こうした純粋な直観〔作用〕と純粋な思考〔作用〕は、実質〔質料〕を機会として、まず活動をはじめ、そして概念を産み出すのである。
    私たちの認識力〔Erkenntniskraft〕が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名なロック〔John Locke, 1632-1704〕≠フおかげであるとしなければならない。
    しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。
    というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念〔空間と時間、カテゴリー〕は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。このような生理学的な〔physiologische〕導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないのである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有〔Besitzes〕≠フ説明と呼ぼうと思う。
    従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。

    ―― No.36646,36657,36908 の続き ---

    ◇ ところが、たとえア・プリオリな純粋認識の可能的演繹の唯一の様式、つまり超越論的な道をたどる演繹の様式が認められるとしても、このことによってはまさしく、この様式がかくも不可避的に必然的であるこということは明白ではない。

    ◇先に私たちは、空間及び時間の概念を超越論的演繹によってその源泉にまで追求し、そのア・プリオリな客観的妥当性を説明し規定した。

    ◇ にもかかわらず、幾何学は空間という根本概念の純粋で合法則的な素性に関して哲学に証明書を懇願するまでもなく、自身の確実な歩みを純然たるア・プリオリな認識を通じてたどっているのである。

    ◇ しかしながら、この概念の使用はこの幾何学において〔も〕外なる感性界〔aussere Sinnenwelt外的感覚界〕にのみ関わるのであり、外なる感性界については空間はその直観の純粋形式であり、故にこの外なる感性界〔外的感覚界〕においては、全ての幾何学的認識はア・プリオリな直観に根拠づけられているので、直接的な明証性を持つ。また、その〔幾何学の〕諸対象は、その認識自身を通じてア・プリオリに(その形式に関して)直観において与えられるのである。

    † 原佑訳上巻、p.238〜p.239参照。 原典はMeiner, p.167〜p.168
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.96〜p.97、石川文康 訳 上巻,p.147〜p.148
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−7 No.37244
    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244

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■37243 / )  昨日
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/05(Sun) 11:26:53)
    昨日、昼前に東京に着き代々木上原へ。昼食は卵とじ蕎麦。1時から弦楽トリオのコンサートを聴く。前半は小品を7、8曲。ボッケリーニ、シベリウス、コダーイ、モーツァルト、リヒャルト・シュトラウス、ガーシュイン、エネスコなど。音楽で世界を巡るというコンセプト。後半はベートーベンのトリオ作品9-2。シンフォニー第1番の前年に書かれたそうだ(知りませんでした)。演奏は楽しめたし、同僚に会えたのも嬉しかった。
    その後上野鈴本へ行き寄席を聞く。寄席は何故か聴くより聞くがピッタリする(あくまで個人的感想)。決してボーっと聞いてるわけでもないのだが、笑うからか?あと、見る要素も多くある。3時間半、中だるみなく聞けた。春風亭一之輔がこれからの落語界を牽引していく気がする。
    その後御徒町デリーへ行ってカシミールカレーを食べた。
    ホテルに10時半ころ戻る。

    只今新幹線の中。

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■37242 / )  Re[93]: 涙と悪。
□投稿者/ アートポット -(2024/05/04(Sat) 22:10:50)
    No37241に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >故障するまで温風ヒーターを凹凹に<
    >
    > 良かったね。

    こんばんは、悪魔ちゃん

    温風ヒーターにてとても可哀想。本音では。 若い時にガストにていつも安い目玉焼きハンバーグを毎回注文にての節約も今となっては無駄になってにてかもしれないにて。

    被害妄想の為に、このような結果に。
返信/引用返信 削除キー/

■37241 / )  Re[92]: 涙と悪。
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 20:58:05)
    >故障するまで温風ヒーターを凹凹に<

    良かったね。
返信/引用返信 削除キー/

■37240 / )  涙と悪。
□投稿者/ アートポット -(2024/05/04(Sat) 18:52:12)
    故障するまで温風ヒーターを凹凹ににて直後自然に起動準備ににてあわててプラグをはずにて「(温風ヒーターのヤツ、みちづれにって企んでにてとんでもない温風ヒーターにて。。)」

    「(いや、違う、違うなあ。コンセントからプラグをはずさないと危ないよって最後のチカラを振り絞って知らせてくれたんだ。なんて優しい温風ヒーターだ。)」

    でもイライラにて金属バット購入にてもっと徹底的に凹凹ににてやるにょ。って、金属バット購入予算にてもったいないので今はやめとくにょ。

    映画にて始まって瞬時に推理にて豊悦の藤枝梅安って解って、本当ににてマッタリにてにょ。

    もっと金持ちになる恐怖からドリームくじの購入にて躊躇にてけど購入予定にて。
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■37239 / )  Re[23]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 18:43:55)
    No37238のつづき、
    【「現象学事典」弘文堂2014】にあったの、前にも一部書いたと思うけど、今回は全部書いとく。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    受動的総合/能動的総合 [(独)passive Synthesis/aktive Synthesis]
    フッサールにおいて総合は意識の原形式であり、その特徴は「流れ去る多様の統一」と規定される。サイコロという統一的対象の知覚は、どの側面から、どの距離で、どの光のもとで、見るか(さらには、どのように触れるかなど)に応じて変化する多様な現れ方を通して、その総合として成立する。この知覚したサイコロをのちに想起するときにも、かつて知覚したサイコロと同一のサイコロの想起であるという同一性の意識は総合にとってつくり出される。こうした個別的意識体験の総合が可能になのは、もともと意識生の全体が総合的に統一化されているからである。この普遍的総合の根本形式はすべてを包括する内的時間意識である。「能動的/受動的」という発生的現象学の基本概念は、以前から使用されていた「顕在的/潜在的」「主題/背景(地平)」などの対概念を力動化したものである。自我はいま見えているサイコロの面前を主題として顕在的に意識していると同時に、裏面を背景として潜在的に意識している。この区別の根拠は自我の関わり方の相違にある。「能動的/受動的」の区別も同様であり、能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。
    能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。受動的総合の基底をなすのは内的時間意識による時間構成であり、キネステーゼによる空間構成とともに総合の形式条件を形成する。実質的条件をなすのは連合法則に従う布置形成である。布置形成によって図と地が分化し、地から浮き上がった図が自我を触発する。自我は図に注目して把握的に対向する。それが触発の受容であり、能動性の最低段階をなす。受動的総合と能動的総合の境界線はここに引かれる。把握する、解明する、関係づけるなどの低次の能動的総合を超えた、数える、述定するなどの高次の能動的総合においては、数や述定的事態がなどのイデア的対象が産出される。能動的総合は作用としてはまもなく過ぎ去るが、その成果は自我極に沈殿し、習慣として妥当しつづける。習慣は第二の受動性として、より高度の能動的総合の土台となる。したがって、すべての能動性に先立つ受動性と能動性に由来する受動性が区別される。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    わたしのばあい、
    「自我」を〈考えることする自〉ってしてて、「能動的総合」を〈考知性〉、「受動的総合」を〈感知性〉って言うことにしてるから、

    〔能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕
    の部分、わたし的に言うと、
    《〈考知性〉はとくに〈考えることする自〉的な作用であるに対して、〈感知性〉は〈考えることする自〉の関与なしに〈自ずから〉生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。〈考知性〉はすべて〈感知性〉を土台にして行われる。》
    ってなる。
    〔おのずから〕を〈自ずから〉ってして見たよ。

    ここに出てくる、「内的時間意識」、「触発」、「自我極」っていうの、今回の資料にも出てくるんだけど。
    「キネステーゼ」っていうのは、
    No37189でちょっと書いた。

    現象学に関心がに人にはどうでもいい話しなんだけどね。

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■37238 / )  Re[22]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 15:54:52)
    No37237の感想ね。

    「先-自我的」、「間モナド的」、「先-対象的」、「先-反省的」、「先-言語的」ってあるんだけど、

    (a)の「先-自我的」っていうの、わたしのばあい、〈考えることする前の自〉って見るし、「先-反省的」の「反省」っていうのはたぶんデカルトのだと思うから、だいたい同じようなことなんだと思う。

    (b)にある、
    「間モナド的」は、
    No37183で見たように
    〈間にある、具体的な、生まれつき備わってる、ななかだちする領域的〉、ってなるんだけど、なんか分かりにくい。
    〔受動的で先-自我的な間モナド的原コミュニケーション〕ってあるから、
    〈受動的の領域で、考えることする前の自のような、なかだちする領域での原コミュニケーション、って見たらいいのかな?

    あと、「先-対象的」っていうの「非対象的な他者性」と関連してるようにも見えてて、これ、
    No37211で見たような、「対化」、「非対象化的・非主題化的」を想い出す。

    (d)の「先-言語的」からは、
    No35001の、
    〔フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。〕みたいなのを想い出してる。

    「受動的総合」ってあるけど、次にちょっと書いとくことにする。

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■37237 / )  Re[21]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 14:17:12)
    No37109の資料のから見てるんだけど、
    No37236で(5)からのを少し書いたから、つぎに資料(6)のからのを少し書いとく。

    〔フッサールの発生現象学は、20年代からのフッサール現象学の展開を決定づけているが、その内容と方法は、いまだ明確になっていない。この領域は、次第に明らかになっていったという領域そのものの開示のプロセスをもつ。その際、最も重要な契機となったのが、時間構成の分析と、時間内容に重点を置いて深化した時間分析でもある、20年来展開した「受動的綜合の分析」である。この展開に関して興味深いことの一つに、最近公刊された、『時間意識についてのベルナウ草稿』執筆期である1917/18年に、受動的総合の分析の端緒が見出されうることである。〕

    って言うことみたい。

    これもフッサール現象学を研究している人の論みたいなんだけど、やっぱわたしには難しくてよく分かんなかった。

    (6)の中には「原-自我(Ur-Ich)」って言う語は出てきてないんだけど、「先-自我」っていうのが出てきてるところを書き出して見ると、

    ・・・・・・・・・・
    (a)〔間モナド的共同化の能動的な感情移入において、ある人格が他の人格に人格全体で向かうことによって「我と汝の合致」
    が生じうる。しかし、そこでは、自分自身の行動を客観視し、対象化する理論的で反省的態度は、決定的な役割をはたしてはいない。能動的間主観性を基づける受動的で先−自我的な間モナド的原コミュニケーションにおいては、いまだ自我極もそれに相関的な対象極も形成されてはいない。しかも、重要なのは、この能動的相互主観性の頂点に位置する「我と汝の合致」においては、形成ずみの自我極と対象極としての汝が消滅し、融合する、ということである。〕

    (b)〔原初的な流れる先−自我的で先−対象的な時間化において、形式と内容が不可分離に生じているのと同様に、主観的形式と客観的形式の不可分離性は、我と汝の合致にも妥当するのであり、そこでは他者性に帰属する具体的内容が、非対象的な他者性へと転化しているのである。〕

    (c)〔我と汝の合致の超越論的可能性は、対象化する主観と対象化された客観の亀裂の克服である。〕

    (d)〔我と汝の合致が、発生的現象学による、無意識的に働き、先−反省的で、先−言語的に働く自己中心化と身体中心化の発生の解明なしには、その達成が難しいのも当然であるといえよう。〕
    ・・・・・・・・・・

    これについてのわたしの感想は後で。

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■37236 / )  Re[20]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/04(Sat) 10:41:29)
    きょうもお喋りしちゃうよ〜

    No37233のつづき

    いまの話題は、フッサールの言う「原-自我(Ur-Ich)」っていうの、どういうかな?ね。

    No37109の(5)のを少し。

    〔一般にフッサールの発生的現象学は、1920/21年に始まる「超越論的論理学」講義をもってその成立とされる。他方、発生的現象学という方法論の発見あるいは自覚と連動して、「自我」をめぐる思索もまた新たな深まりを見せた。『ベルナウ草稿』は「純粋自我」についての比較的まとまった新たな分析を含むことになった。〕
    ってある。
    わたしのばあい、
    ここにある「自覚」っていうのを、〈自に目覚める〉ってして見るのね。
    「自我」っていうのを、〈考えることする自〉ってして見るのね。
    「純粋自我」は、〈考えることする純粋な自〉ってして見る。
    こうみたとき、『ベルナウ草稿』あたりからフッサールの自我は、〈自〉への思索へ、って見ちゃったりして?

    〔純粋自我に関する限り、その原初的発生がそのまま時間的構成であるとは限らなない。〕
    〔以下の論考では、純粋自我の原初的発生と時間的構成が事柄として別ものであるという可能性に立脚しながら、問題を再構成しつつ、‥‥「内的時間意識」と「原-自我」との間の関係を規定し直すことで、フッサールが原-自我の発見とともに辿り着いた境位を明らかにしたい。〕
    っていうことみたいなんだけど、わたしにはよく分かんなかった。
    「内的時間意識」っていうの、【「現象学事典」弘文堂2014】のなかにあったけど、話がごちゃごちゃしてくるからここでは触れないよ。

    わたしがいちばん気になったのは、
    〔自我は「存在者ではなく、むしろ全ての存在者にとって対を成すもの(Gegenst&#252;ck)」であり、「一つの対象ではなく、全ての対象性にとっての原象(Urstand)」であると言われる(Ibid.,S.277)。このような「原象」としての自我を、フッサールは便宜的に「原-自我(Ur-Ich)」(Ibid.S.286)と呼ぶ。この呼び名が便宜的である理由は、自我は「本来、自我と呼ばれるべきではなく」、「名無し(das Namenlose)」であるからだ(Ibid.S.277f.)。1931年のフッサールの草稿から引用すれば、「機能する自我は、それが機能しているときには匿名的」(Mat.V111,S.53,vgl.auch S.2,7,338)なのである。〕
    っていうところ。
    もうこうなると、「原-自我(Ur-Ich)」、「私(Ich)」、「自我(Ich)」――「私」、「自我」、「Ich」、もうごちゃごちゃになってる感じ。
    もし、「原-自我」っていうのが、人称的な「私(Ich?)」って言うのもでもなく、「自我」って言うでもないんだったら、こういう語を使わず、なんか“そのようなもの”に、別の名前をつけた方がいいんじゃない?って、わたし思うけどね。
    フッサールは、デカルトのやカントのをひきずっていたからかも?ね。

    資料(5)には、「原-自我(Ur-Ich)」、他にもっと書いてあったけどなんかめんどくさくなってきたから書き出すのやめとく。

    (5)からのはひとまずこれだけにしとく。

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■37235 / )  週刊土曜日
□投稿者/ rest -(2024/05/04(Sat) 09:48:17)
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■37234 / )  映画の喩え
□投稿者/ knowingitself -(2024/05/04(Sat) 09:17:19)
    多数の登場人物が出演している映画。この自分はその映画の唯一の観客。
    登場人物であるAさんはリアルではどんなに親しくても、映画の登場人物として知りうるのみ。

    一方、Aさんもまた多数の登場人物が出演している映画の唯一の観客であり、この自分はAさんの映画の登場人物でしかない。


    「映画の唯一の観客」という喩えを出したが、三次元空間でスクリーンを眺める観察主というイメージではない。

    わたしがイメージしているのは、厚みのないうすーい二次元のスクリーン。二次元、三次元という語やイメージはあくまで方便なので、二次元といった時点でこれも違うのだが。要するに、次元を書いた直接性。媒介なしの直接性。ここに映画を観る自分がいる。そういうことだ。
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■37233 / )  Re[19]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:08:02)
    今日はもうちょっと

    No37217で、「自我」、
    No37231で、「自己」(資料の中では、っていうことでね)、
    わたしの目安が出来たところで、

    資料の中をのぞいていって見る。

    No37109の(3)で、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    〔現象学にとって他者が困難な問題となるのは、他者が他者についての私の経験として、〈省察する私〉の反省の俎上にのせられてしまい、〈省察する私〉そのものとの関係で問われることがないからである。フッサールは、『イデーンT』や『省察』において曖昧であった〈超越論的自我〉と〈省察する自我〉との関係に関して、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1954)において、徹底的に首尾一貫した判断中止について言及している。そこでフッサールは、これまで「私の」という人称的意味を密かに冠していた〈超越論的自我〉を「原自我(Ur-Ich)」と呼び、規定し直すのである。フッサールによれば、それは他に呼びようがないので曖昧なまま「私」と呼ばれていたが、それ固有の意味では、「私」という人称的意味をもたない自我極として規定されるものである。〕
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってある。

    〈超越論的自我〉、この〈超越論的〉っていうの、
    No37157で見たように、〈純粋〉とも言っていいのかな。
    簡単に見て、
    〈超越論的(純粋)自我〉って呼んでいたもの、後で「原自我(Ur-Ich)」って、言い変えた、っていうことなのかな。
    そして、このような「自我(原自我)」っていうの、どうやら、人称的意味の「私」っていうんじゃなくて、って、いうことなのかな。
    ってすると〜、資料(3)の、「私・自我(Ich)」っていうの、じゃないんじゃないの?ってわたし思うけど。

    ここに〈省察する自我〉ってあるけど、わたしの見方では〈省察する考えることをする自〉っていう言い方になるかな。
    そして、その前の(原初の)自、こういうのを、フッサールは「先-自我」とか「原-自我」って呼んだんじゃないかしら?

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■37232 / )  Re[18]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 20:00:08)
    そこはかとなく

    誰かに作り出された自分の価値っていうのあるかもね。
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■37231 / )  Re[17]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/03(Fri) 17:21:34)
    連休も再開したことだし、わたしのお喋りも再開〜

    いまは、
    No37109のを読んでて、
    No37212に揚げたようないろんな「私」を見ようとしてるところ。
    あ、わたしのはフッサール現象学を正確に理解することじゃなくて、
    それを手引きとして、わたしのどうしとっこかな〜、っていうの。

    つぎに、「自己」っていうの、どう見とっこっかな、って。

    資料の中で、「自我」と「自己」をどう使い分けてるのか、いくつか探し出して見たよ。

    (3)に、
    「自己移入」「自己統覚」「自我の自己構成」「自己時間化」
    (5)に、
    「反省以前に自己感触が機能していた」「自我の自己感触」
    (6)に、
    「内的時間による自己構成」「自己自身」
    ってあるのね。

    たとえば、(3)の「自我の自己構成」みたいに、「自我」と「自己」は区別されてる。
    日本語で考えて見るんだけど、
    「自我」「自己」の区別は「我」と「己」の違い。
    で、いろいろ考えたんだけど、いまんとこ、
    資料の中での「己」っていうのを〈体〉ってして見て、
    「自己」≒〈自体〉ってして、見ようとしてる。
    こう見たとき、「私自身」となんか似てる感じだから、
    「自己」≒〈自体〉≒「私自身」ってして見ていくことにしたよ。

    「〈意識(精神)〉と〈身体〉」を表す語としてね。

    かなりむりやりな感じするけど‥‥ひとまず。

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■37230 / )  選手交代
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/02(Thu) 21:01:21)
    多分今年最後のタケノコ、有終の美(?)は若竹煮。巷ではタケノコの豊作が報じられているがうちのタケノコはいつもの半分くらい、とは言っても40本くらい採ったかな。

    入れ替わりに蕗の季節。まだ小さめだが、季節の香りがいい。
881×660 => 600×449

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■37229 / )  叡王戦
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/02(Thu) 19:07:11)
    藤井叡王対伊藤巧7段第3局は伊藤匠7段が勝ち対戦成績を2勝1敗とした。叡王戦は5番勝負なので伊藤匠7段がタイトル奪取に王手をかけたことになる。藤井8冠がタイトル戦でカド番に追い込まれたのは初めて。

    この二人は同い年。藤井8冠と互角に渡り合えるのはやはり若手ということか?


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■37228 / )  金持ち喧嘩せず。
□投稿者/ アートポット -(2024/05/02(Thu) 18:38:09)
    2024/05/03(Fri) 04:00:13 編集(投稿者)

    地活にて、「クルマの免許持ってないけど、トヨタのスープラを購入にて駐車場に飾っても良いですか?」って助言を求めて、みんな難色を示して、「金持ち過ぎてにて資産と予算の管理にて鬱と恐怖で正気を失うとこまで来ているにてにょ。」って、「アイルトンセナが猛追のシューマッハに恐怖にてアランプロストへの複雑な心境を運転中に語った直後に事故死にて、僕も今のうちに資産を豪快に用い切らないとにてにょ。」、地活仲間のほとんどが劣等感のような小さな声の声色にて、「(これは危ない。裏切り者がでるかもしれない。)」、ピタリと話をやめて長椅子にてグッタリ。帰宅後、一時間行動不能にて、父親と柏餅を食べたら途端に鬱が回復、マッタリネット起動にて。

    金曜日に訪問看護に、鬱になることが増えて躁の時もちょっとあるかもって話す。
    統合失調症になってから双極性障害にもなった例はほとんどないって地活の精神保健福祉士に助言されてにてって訪問看護に話す。

    訪問看護に薬を間に合わせる。追加で届いてにて薬の話も話す。

    追記
    ぺキロンにて数年後の7月にてのを塗るにて。数年後の10月のにてよく見るにて。
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■37227 / )  ジャズ、オスカー・ピーターソン
□投稿者/ 田秋 -(2024/05/02(Thu) 09:57:13)
    https://www.youtube.com/watch?v=QScPIdT6fjI

    ボクにとってジャズは特別な存在です。ひと言で言うと「憧れ」です。

    好きなプレーヤー沢山います。ジョー・ザビヌル、ドン・プーレン、マイルス・デイビスなど。しかしボクのジャズの原点はオスカー・ピーターソンです。やはり大学1、2年の時、新宿の厚生年金会館で聴いたソロライブが強く影響しています。

    下は1974年の演奏。ボクが聴いた頃のオスカー・ピーターソン
    https://www.youtube.com/watch?v=SewFqU5SjuE

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■37226 / )  Re[32]: 純理B181 図式論
□投稿者/ pipit -(2024/05/02(Thu) 09:30:44)
    2024/05/02(Thu) 09:31:31 編集(投稿者)

    続きです
    No37224は、幾何学のような感性的概念の図式についてだったのですが、今回は純粋悟性概念の図式について述べるようです。


    On the other hand, the schema of a pure conception of the understanding is something that cannot be reduced into any imageーit is nothing else than the pure synthesis expressed by the category, conformably, to a rule of unity according to conceptions. It is a transcendental product of the imagination, a product which concerns the determination of the internal sense, according to conditions of its form (time) in respect to all representations, in so far as these representations must be conjoined a priori in one conception, conformably to the unity of apperception.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap56

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