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Re[61]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/10(Tue) 18:21:59)
| No45474のつぎに、 No45451の(Hu-L1-訳注(3))にある「現象学的還元」について、 現象学事典のなかからその一部を。
現象学的還元[(独)phänomenologische Reduktion]p125- (Hu-L3) —――――――――――― 現象学的還元とは、さしあたりまず、『イデーンT』の言い方をかりれば、「自然的態度の一般的定立の徹底変更」のことである。 私たちが普通自然的態度において生きているときには、私たちは諸事物や世界が向こう側に現に存在していると素朴に信じている。こうした「定立」の働きを「作用の外において」「遮断」(Ausschaltung)し、したがってまたその定立によって成り立つ諸対象や世界を「括弧に入れて」(Einklammern;それゆえまた当然ながら、その自然的態度の上に成立する「事実学」や「本質学」をも「遮断」し)、こうして素朴で無造作な定立に「エポケー」(判断停止)を加えてそれを「停止」することが「現象学的還元」ということにほかならない。 ――――――――――――――――― (Hu-L4) —――――――――――― 「還元」(Reduktion)というと、人々は往々にして、その語に通常つきまとう「縮小・削減・簡素化」の意味にこれを誤解しやすい(そうすると、いわゆる「還元主義」の考え方が出てくる)。しかし、フッサールの現象学的「還元」はそれとはまったく異なる。それは、自然的世界を否定したり、懐疑したり、何か別のものへと縮減したりするのではまったくないのである。 むしろ、自然的態度のなす一般的「定立」は、遮断され括弧に入れられたままで、「いぜんとしてなをもずっと現にそこに存在し」、「全自然的世界」は「絶えずそこにあり続ける」のである[IdeenI54,56]。現象学的還元によって、「そこでは何も失われはせず」、「いっさいの括弧に入れられた妥協」や「世界」は、「括弧に入れられたまま保持され、残っている」[Hu8.167]。エポケーは「私たちを無に直面させるのではなく」、世界は「消え去ってしまう」のでは「ない」のである[CM60]。 むしろ、エポケーによって開かれるのは、「世界についての意識」としてのこの私の「生そのもの」であり、その無限の「意識生活」とそれによって思念されている「世界そのもの」である[CM61,75]。したがって、そこでは、「素朴な“偏見”としての世界」が遮断され、世界の意味を問いなおうそうともしない素朴性が遮断されるというべきであろう。 ―――――――――――――――――
「現象学的還元」っていうの、たぶん現象学における“方法”なんだと思う。 “なんのための”、っていうのは思案中。
ちなみにわたしのばあい、「現象学的還元」っていうのを〈遡って見ること〉ってしてる。
あ、いまはまだわたしが抽出したところを書き出して見てるだけ〜、の段階ね。
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