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Re[85]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/29(Sun) 18:21:28)
| 現象学の、抜粋だけでよさそうなんだけど、わたしに思われたのをちょっと書いとくね。
No45558は、 No45538のBの、〔デカルトの道〕、〔新しい道〕に関係してる、ってわたし見てる。 No45549のペイントしたのも見ながら、
まず、「デカルトの道」の〔客観的諸学←エポケー→超越論的自我(主観性)〕 っていう道について、Bの、 (D)〔自然的態度にもとづく客観的学問の領域からエポケーを通じて一挙に超越論的自我へ到達するような手続きを「デカルトの道」と呼び〕 っていうところ、
わたしの見えを書いて見るよ。
(1)フッサールの場合、「自然的態度の素朴的意識」には、「日常的人間の」と「客観的諸学の」とがあるみたいなので、〔自然的態度にもとづく客観的学問の領域〕っていうふうになってるんだと思う。
(2)〔超越論的自我〕、これを「ego cogito」(考える我)ってして見るのね。
(3)〔エポケー〕を「反省」ってして見るのね。 この「反省」っていうの、デカルトの「方法的懐疑」(ms)を、フッサールは「現象学的反省的方法(現象学的還元−エポケー)」(mi)に置き換えて見てるんだと見てる。 わたしのばあい、(ms)を〈否定を前提とした懐疑の方法〉っていうイメージがあって、 (mi)の方の「エポケー」は〈否定も肯定もしないままにしておく〉っていうイメージがあるのね←No45485(Hu-L4)。 で、いずれにしても(ms)も(mi)も、「反省っていう方法」っていう意味で「反省」ってしてるよ。
ってして、
No45557の(D1)から (D)を見て行って見ると、
(D-A)デカルトは大きくなるにしたがって〔客観的学問〕(oa)を学んでいくのね。(oa)から「幾年か前に〈あるとき〉)」反省し始めたのね。「幼少の頃〈自然的態度の素朴的意識〉の」を。そして「ego cogito」(考える我)に到達した。
こんな感じのをフッサールは「デカルトの道」って言ってるんじゃないかな?
フッサールの「超越論的自我」とか「超越論的主観性」っていうの、カントの、 No44106の(NtS)からわたしが見た、「自我」=作用体=「超越論的統覚」、のことじゃないかな?って見てるんだけど、 ただ、 No11393にあるように、フッサールはカントの「超越論的統覚」っていうのを、〈より高次における統覚〉の方を指して言ってるんじゃないかな? そして、 (2)のようにして見ると、フッサール、〈考える我〉を「超越論的統覚(作用体としての自我)」(より高次における統覚)として見てるのかも?
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