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Re[55]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/01(Sun) 15:37:01)
| わたしの物語り、話題を変えて、フッサールの「生活世界」っていうのを見てくことにするよ。
No41741(F-D),(M-P)のなかから、これに関すると思われるところをまず書き出しておきます。前にも書いたかもだけど。
(F-D)『デカルト的省察』から、 (Hu-L1)—――――――――――――――――― 日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。その際、経験することがもつ志向的な働きはすべて、それによって初めて事実が端的にそこに存在することになるものであるにもかかわらず、匿名的に行われる。経験している者自身は、それについて何も知らない。そこで働いている思考についても同様何も知らない。例えば、数、述定的な事態、価値、目的、作品といったものは、この隠れた働きのおかげで、一つ一つ積み上げられて現れるが、経験している者には、これら現れてくるもののみが視野に入る。実証的な諸学においても、事象は変わらない。それらは高次の素朴性であり、賢明な理論的技術によって形成された作品であるが、ただ、それらがすべて究極的にそこから湧き出ているはずの志向的な働きが、解明されないままなのだ。学問というものは確かに、その理論的な歩みを正当化できることを要求し、いつも批判的吟味に基づいているが、その批判は究極的な認識批判(3)なのではない。究極的な認識批判とは、根源的な働きについての研究と批判吟味であり、それらがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである。 (FD-p272-273)
訳注(3):ロックの『人間知性論』からカントの『純粋理性批判』に到る近代哲学の課題は「認識批判」であった。フッサールが現象学的還元の着想を得た頃の覚え書きにも「理性の批判」という語が見られる(『現象学の理念』参照)。 ―――――――――――――――――――――――
(M-P)『知覚の現象学』から、 (Me-L1)—―――――――――――――――――― 現象学とは何か。‥‥・ 本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それら「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある。それは自然的態度から生ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越論的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先立って、破棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。現象学は、「厳密学」たろうとする哲学の野心であるが、またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。それは、われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学者が提供しうるような、その因果的な説明を顧慮せずに、経験をあるがままに、直接、記述しようとする試みである。(MP-p1-2) ――――――――――――――――――――――― (Me-L2)—―――――――――――――――――― 現象学とは何か。・・・・ フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるいは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。(MP-p2) ―――――――――――――――――――――――
これからはこういうことのについて見てくつもり。しばらく調べて喋りできそうになったらだけど。
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