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Re[77]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/22(Sun) 08:32:44)
| No45557に補足して、 デカルトの「我(エゴ)」についてフッサールが語っているのがあるのでちょっと書き出しておくね。
フッサールの『デカルト的省察』から、 (Huts)――――――――――――― しかしおそらく、デカルトが超越論的な我(エゴ)を発見した時、それとともに、認識を基礎づける新しい理念、すなわち、超越論的基礎づけという理念も開かれるのだ。実際私たちは、〔超越論的ではなく〕超越的な主観性(1)に導くはずの推論のために、疑いの余地がない前提として、我思う(エゴ・コギト)を利用しようとしているのではない〔デカルトがしたのは、それであったが〕。そうではなく、現象学的な判断停止(エポケー)が(省察する哲学者としての私に)、まったく新しい無限の存在の場を、まったく新しい超越論的経験(2)の場として開示する、ということに注意を向けるのだ。 ―――――――――――――――――(p59−60) 訳注―――――――――――――――― (1)デカルトはせっかく発見した「思う〔思惟する〕我」を「世界の小さな末端」である「人間としての我」と捉えてしまった。それは、フッサールの言う「超越論的な主観性」を捉え損ない、世界内部の「超越的な主観性」としてしまったものである。 (2)「超越論的」という用語は、カントにおいては、「先験的」とも訳されることに見られるように、「経験的」という用語と対立するものでもあった。したがって、「超越論的経験」(あるいは、「先験的経験」)という言い方は、カントの用語法から言えば、矛盾する奇妙な言い方である。しかし、フッサールにとっては、「超越論的主観性」は「経験」の場を離れたところにあるわけではなく、あくまでも「経験」という場のなかで機能しているものとして見いだされるのであり、そのような問いの場こそが「超越論的経験」と呼ばれている。 ――――――――――――――――――(p295)
こうなってくるとごちゃごちゃしてよくわかんなくなってくるんだけど、 ひとまず、 デカルトは〈考える我〉っていうのを発見した、ってフッサールは見てるみたい。
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