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Re[72]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/20(Fri) 18:20:31)
| フッサールの「生活世界」、わたしなんか分け分かんなくなってきちゃってる感じ〜。 で、 No45474、現象学辞典のなかからのをもうちょと書き出しておくね。 (Hu-L7) —――――――――――― ・@「つねに問われるまでもない自明性のうちにあらかじめ与えられている感覚的経験の世界」[Krisis77]である生活世界がいっさいの科学的知識の意味形成と存在妥当の根源的な地盤であるとすれば、生活世界の現象学は「学すなわちエピステーメーに対する基礎としての尊厳を一挙に要求するところのドクサについての学という奇妙な学」[同158]というパラドキシカルな性格を身に帯びざるをえない。もしそうだとすれば、現象学本来の課題であった学問の「究極的基礎づけ」というプログラムは破綻せざるをえないであろう。 ・Aそれに対してフッサールは、「生活世界もまた単純に目の前に与えられるものではなく、それが構成してくるありさまを問題としうる形成体」[EU49]であるという観点から、生活世界をあらかじめ与える超越論的主観性の能作へと分析を遡らせることによって、アポリアからの脱出を試みる。 ・B彼は『危機』第43節において『イデーンI』で展開された、自然的態度にもとづく客観的学問の領域からエポケーを通じて一挙に超越論的自我へ到達するような手続きを「デカルトの道」と呼び、それが超越論的自我の内容をきわめて抽象的で空虚なものにしているという欠陥を指摘する。その上で彼は、まず客観的学問の領域から具体的な生活世界への還帰を遂行する「新しい道」を提案し、さらにその生活世界を「手引き」として超越論的主観性へと遡行する第二段階の〈還元〉を要求する。この二段階の還元を通じて、生活世界の現出の仕方を規定する「普遍的構造」があらわにされ、同時に主観性の明晰な自己理解という現象学本来の自己責任的課題もまたそこで果たされるのである。 ――――――――――――――――― そして、「生活世界」の二義性、ってあって、 (Hu-L8) —――――――――――― しかしながら、基礎づけるものであり基礎づけられるものである、という生活世界の二重性は、もう一つのアポリアを顕在化させずにはおかない。 ・・・・・・ もちろんフッサール自身もこのようなパラドックスに気づいていた。彼はそれを「具体的な生活世界は〈科学的に真なる〉世界に対してはそれを基礎づけている地盤であるが、それと同時に、生活世界独自の普遍的な具体相においてはこの科学的世界をも包括している」[Krisis134]と述べている。 明らかに彼はここで、日常的な生活世界が、認識上の明証性の基盤としての知覚的経験の世界であると同時に知覚的世界と科学的世界をともに包括する全体的な歴史的文化的世界であることを自覚しているのである。 しかし、これらの二つの性格は、ヴァルデンフェルスが的確に指摘しているように、両立しえない。つまり、「生活世界は、具体的=歴史的なものである限りは普遍的基底ではなく、逆に普遍的基底である限りは具体的=歴史的なものではない」からである。 ―――――――――――――――――
ひとまず抜粋だけね。
興味ない人にとってはどうでもいい話ね。ん〜ん、だからこそわたし書き写しちゃってるのね。
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