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Re[76]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/03/22(Sun) 08:19:52)
| No45538に「デカルトの道」ってあるから、デカルトの『省察および反論と答弁』、前に書いたと思うんだけど、どこに書いたか探し出せなかったので、もう一度書いとく。
(D1)―――――――――――― 第一省察 疑いを差しはさみうるものについて ( 〈懐疑〉を徹底する )
私は、すでに幾年か前のことになるが、こう気づいたのである。幼少の頃にどれほど多くの偽なるものを真なるものとして私が受け入れてしまっていることか、そしてそのようなものの上にその後私の積み重ねてきているものがどれほど疑わしいものであることか、したがって、もろもろの学問において堅固で朽ちることのないものを私がいつかは定着させたいと願うならば、一生に一度は[断固として]すべてを抜本的に覆してしまって、最初の土台からあらためて始めなければならない、と。 ――――――――――――――― そして、 (D2)―――――――――――― 第二省察 人間的精神の本性について。精神は身体よりも、より良く識られるということ。
私はそこで、私の見るもののすべてが偽である、と想定する。当てにはならぬ記憶が表象[ナイシハ、再現]するもののうちにはかつて存在していたものは何もない、と信ずることにする。何らの感官も私は全くもっていないことにする。物体、形状、延長、運動、ならびに場所は、幻影であることにする。それでは、何が真なのであろうか。おそらくは、確実なものは何もないというこの一事[のみ]であろう。 しかしながら、今も今私の列挙したところのすべてとは別箇のもので、それについては疑う事由のそれこそほんの少しもないようなものが、全然ないというわけではないかもしれぬではないか、神、あるいは[神と言っては悪ければ]どのような名でそれを呼ぼうと、何かそういったものがあって、私〔の精神〕にそういう[すべては疑わしいという]考えそのものを送りこんでいるのではないか。なにゆえに[実は]しかし、私はそう考えるのか、たぶん私自身がそういう考えの創作者でありうるというのに。そうならば少なくともこの私は何ものかであるのではないのか。しかしながら、すでに私は私が何らかの感官や身体をもつことを否定したのである。私はしかし[それでも]踏み切れない、いったい何がそこからは〔帰結されるのか〕、と。私は、身体や感官に繁がされていて、それらなしにはかくてありえないのであろうか。しかしながら私に私は、世界のうちには、天空も、大地も、精神も、物体も、全く何一つとしてないということを、説得したのである、が、そうとすれば、また私もないと、説得したのではなかったであろうか。いな、そうではなくて、何かを私に私が説得したというのであれば、確かに[少なくとも]この私はあったのである。しかしながら、誰かしら或る、この上もなく力能もあればこの上もなく狡智にもたけた欺瞞者がいて、故意に私を常に欺いている。彼が私を欺いているならば、そうとすればこの私もまたある、ということは疑うべくもないのであって、彼が力のかぎり〔私を〕欺こうとも、彼はしかし[それでも]けっして、私が何ものかであると私の思惟しているであろうかぎりは、私が無である[アルイハ、何ものでもない、全然あらぬ]、という事態をしつらえることはできないであろう。かくして、すべてを十分にも十二分にも熟考したのであるから、そのきわまるところ「われあり、われ存在す、」という言明は、私によって言表されるたびごとに、あるいは、精神によって概念されるたびごとに、必然的に真である、と論定されなければならないのである。(P.37,38) ――――――――――――――――
こういうふうにして、疑う余地のない「Ego cogito, ergo sum, sive existo」(我思う、故に我在り)が生まれたみたい。
「私は頭のいいデーモンに騙されているのではないか?」みたいに考えるところおもしろいよね。
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