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■45594 / inTopicNo.1)  Re[54]: フッサール
  
□投稿者/ akaimi -(2026/03/28(Sat) 08:34:34)
    Copilotに以下の質問をしました。

    (私)
    フッサールとカントについて。

    フッサールは、「意識にすべてのものが現れてくる」のであり、客観世界というのはそれとして存在するから認識可能なのではなくて、他者との共通認識としてあるからそれが客観世界だとされているのだ、という考え方よね。

    これというのは、カントの物自体は認識不可能、人間に共通する認識形態があるからこそ客観に近い認識を持つことが可能だとする考え方を、さらに進めたものに感じるのだけどどうかな?

    (Copilot)
    結論から言えば、フッサールはカントの路線を「さらに内側へ」徹底させた哲学者だと言える。
    ただし、単なる延長ではなく、方向性を少し変えながら深めている。

    ---

    カント → フッサール

    1. カント:物自体は認識できない/人間の認識形式が客観性をつくる
    カントの立場はこうだった:

    - 世界そのもの(物自体)は認識できない
    - しかし、人間に共通する認識形式(空間・時間・カテゴリー)がある
    - だから、人間にとっての客観的世界は成立する

    つまり、
    「客観性=人間に共通する認識の枠組み」
    という考え方。


    ---

    フッサール:カントの枠組みをさらに“経験の内部”へ押し戻す
    フッサールはカントの「物自体は認識できない」という前提をそもそも疑う。

    彼の主張はこうなる:

    - 私たちが世界を経験するのは、意識の働き(志向性)によって世界が“現れてくる”から
    - 「客観世界」は、意識の外に“勝手にある”ものではない
    - むしろ、他者との間で共有される経験の構造によって「客観的」とみなされる

    つまり、

    > 客観世界は、意識の外にある“物自体”ではなく、
    > 意識と他者との間で成立する“間主観的な世界”である。

    ここがカントとの決定的な違い。

    ---

    > 「カントの考えをさらに進めたものに感じる」


    ただ、正確に言うと「進めた」というより、

    - カントが「人間の認識形式」という“構造”に求めたものを
    - フッサールは「実際の経験の流れ(意識の現れ方)」に求めた

    という違いがある。

    カントはまだ「認識主体の枠組み」という“箱”を前提にしていたけれど、
    フッサールはその箱すら解体して、

    > 経験そのものの中から、世界の客観性がどう成立するかを探る

    という方向に進んだ。

    ---

    まとめ:

    | カント | フッサール |
    |--------|-------------|
    | 物自体は認識できない | 「物自体」という前提自体を suspend(エポケー)する |
    | 人間に共通する認識形式が客観性をつくる | 他者との間主観性が客観性をつくる |
    | 認識主体の枠組みが中心 | 経験の流れ(意識の現れ方)が中心 |
    | 客観性=認識形式の普遍性 | 客観性=間主観的に共有される経験の構造 |

    ……
    私の感想

    フッサールは、人間には認識できないものについてはとにかくエポケーして考えようとしたのですね。
    間主観性が客観性を作る、で、見えているもの(認識できているもの)についての客観性を保持できるからこそ、社会生活は成立しているわけですし。

    ただ、人間の認識形式についての基礎をまとめたカントの哲学があってこそ、フッサールのこうした哲学になったというのは感じますね。

引用返信/返信 削除キー/
■45581 / inTopicNo.2)  Re[53]: フッサール
□投稿者/ akaimi -(2026/03/26(Thu) 14:00:29)
    なかなか読み進められずにいますが、ほんの少しずつ読んでます。(^_^;)
    というわけで、同書P85にある印象的な文章を今日は投稿にしたいです。

    ………
    このように、「意識を超越したところに客観世界があるはずだ」ということ自体も、やはり、意識のなかで信じられたものである、とフッサールは考えるのです。
    ………P85より引用

    それで、意識から独立した世界がたしかにあるという信念を、フッサールは「世界信念」と呼んだそうです。(P86より)

    たしかにそれは、言われてみれば信念という表現は的確かもしれないです。
    私の意識が消えたとしても(亡くなっても)、他の人たちの意識には世界が映っているはずで、意識とは無関係に世界は存在しているかのように頑丈さを持ちここにあると見えますよね。

    次に、「体験の調和」による世界信念の再生産というのが出てきます。(P86からです)

    また次回、ここと少し先にも進めたいです。
引用返信/返信 削除キー/
■45480 / inTopicNo.3)  Re[52]: フッサール
□投稿者/ akaimi -(2026/03/09(Mon) 12:14:01)
    『フッサール ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』西研 著の第三回 現象学的還元によって見えるもの から。
    そのP80に、『危機』書の第二部からとして
    ………
    それ自体において最初のものは、問われるまでもない自明性のうちにある[客観的]世界の存在ではない[…]。むしろ、それ自体において最初のものは、主観性である。
    ………
    とあります。

    ここから、見聞できているもののみならず、想像するもの、未知のものについてもそれらはすべて意識の場に現れるとする「現象学的還元」の見方になるのですね。

    …………

    ひさしぶりの投稿になります。
    関連しそうな余談を書いてみます。

    先日、とあることで10人程度が集まり、とある対象に施されたものが、「下手だな」と言う人がいて、逆に、「綺麗にできてる」という人もいました。
    私は綺麗にできてるなと思ったほうでした。

    この時、それぞれの人の意識に対象が現れているわけです。
    あくまで意識に現れているその対象ということで考えたり調べたり(反省というようです)するのが「現象学的還元」。
引用返信/返信 削除キー/
■45344 / inTopicNo.4)  Re[53]: フッサール
□投稿者/ akaimi -(2026/02/15(Sun) 08:22:36)
    2026/02/15(Sun) 08:30:52 編集(投稿者)


    悪魔ちゃん、情報をありがとう!
    no45336から引用しました。
    ………
    〈感覚〉としての赤と、「どんな」赤かと言うときの赤とは区別されなければならない。〈どんな〉という質のうちには、すでに赤という純粋印象と、例えば空間・時間のある広がりを覆うという〈印象の機能〉との二つの契機が含まれている。従って〈認識する〉ということは、つねにある与件を、ある機能において、またある間係のなかで、つまり、それが私にとって意味をもち、しかじかの構造を呈示する「かぎりにおいて」把握する、ということである。』(MC下p123)
    ………

    フッサールの言ってることとたしかにどこか共通してるように感じます。


    メルロ・ポンティと現象学の関係について少し知れたらと思い、Copilotに質問しました。

    メルロ・ポンティと現象学の関係について教えてください。

    ……以下はCopilotからの回答

    メルロ=ポンティと現象学の関係は、一言でいえば 「身体を中心に現象学を再構築した哲学者」 という位置づけになります。
    検索結果からも分かるように、彼の主著『知覚の現象学(Phenomenology of Perception, 1945)』は、フランス現象学の代表作であり、20世紀思想の転換点とされています。

    ---

    メルロ=ポンティは現象学に何をもたらしたのか

    1. フッサール現象学の継承と批判的発展
    メルロ=ポンティは、フッサールの「現象学的還元」や「意識の志向性」を継承しつつ、
    意識中心の現象学では説明できない“身体的な経験”に光を当てた点が特徴です。

    - フッサール:意識が世界を意味づける
    - メルロ=ポンティ:身体が世界に開かれていることが、経験の根底にある

    この転換が、後の身体論・認知科学・芸術論にも大きな影響を与えました。

    ---

    2. 「知覚の第一性(primacy of perception)」
    『知覚の現象学』でメルロ=ポンティは、
    知覚こそが世界との最初の接点であり、思考よりも根源的である
    という立場を明確にします。

    これは、デカルト的な「心と身体の二元論」や、カント的な「認識の枠組み」を超えて、
    生きられた身体(corps propre) を哲学の中心に据える試みでした。

    ---

    3. 身体性(embodiment)の哲学
    メルロ=ポンティの最大の貢献は、
    身体を“物体”でも“精神の道具”でもなく、世界に意味を開く主体として捉えたこと
    です。

    - 身体は世界に投げ出されている
    - 身体は習慣・技法・感覚を通して世界を理解する
    - 身体は「私が世界に触れ、世界が私に触れる」媒介

    この考えは、後のハイデガー、サルトル、さらには現代の認知科学(エンボディド・マインド)にもつながります。

    ---

    4. 現象学の新しい方向性を開いた
    メルロ=ポンティは、フッサールやハイデガーの現象学を継承しながら、
    「身体」「知覚」「世界との関係性」 を軸に、現象学をより具体的で生きられた経験に根ざした哲学へと発展させました。

    Britannica でも、彼は「フランス現象学の主要な代表者」と位置づけられています。

    ---

    まとめ
    メルロ=ポンティと現象学の関係を整理すると:

    - 現象学の中心を「意識」から「身体」へ移した哲学者
    - 知覚の根源性を強調し、世界との関係を再定義した
    - フランス現象学の代表者として、20世紀思想に決定的な影響を与えた


引用返信/返信 削除キー/
■45335 / inTopicNo.5)  Re[52]: フッサール
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/14(Sat) 16:32:10)
    Akaimiさんこんにちは
    フッサールのなのでまたお邪魔しま〜す。

    ■45319、これ、自然(あるいは世界)の科学的知見とフッサールのとのことを言ってるんじゃないかな?ってわたし見たんだけど、として、メルポンのなんだけどあるからそれわたしのところに書いて見ます。

引用返信/返信 削除キー/
■45319 / inTopicNo.6)  Re[51]: フッサール
□投稿者/ akaimi -(2026/02/12(Thu) 10:05:40)
    こんにちは!
    ひさしぶりの投稿です。

    フッサールについての本を読み、疑問点をCopilotに質問しました。

    (私)
    100分de名著『フッサール ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第二回科学の手前にある豊かな世界 を読んでます。
    P39からP55の部分からの質問

    ガリレイによる自然の数値化というのについて語られています。
    感性的性質にも数学的法則が貫かれていて、真の世界はそもそも数学的にできているという仮説をガリレイは自明のものとしたとしたことを「ガリレイによる自然の数値化」と呼んだということですね。

    感性的性質とは具体的にどのようなものですか?

    (Copilot)
    「ガリレイによる自然の数値化」 を理解するうえで、
    「感性的性質(sensuous qualities)」とは何か を押さえるのはとても大事です。

    ---

    感性的性質とは何か?
    フッサールが言う「感性的性質」とは、
    私たちが日常の生活世界で、身体を通して直接感じ取っている性質 のことです。

    たとえばこんなものが典型例です:


    - 空の青さ
    - 木の緑
    - 夕日の赤さ


    - 鳥の声
    - 波の音
    - 風の音

    触覚
    - ものの硬さ・柔らかさ
    - 温かさ・冷たさ
    - ざらざら、つるつる

    味・匂い
    - 甘い、しょっぱい
    - 香ばしい匂い
    - 源氏パイの甘さや歯ざわり(まさにこれ!)

    形や大きさの「感じ」
    - 近くにあるものは大きく見える
    - 遠くの山が青く霞んで見える

    ---

    ガリレイがしたこと:感性的性質の「数学化」
    ガリレイは、こうした「感性的性質」を
    数学的な性質(長さ・重さ・速度・角度など)に置き換えて理解できる
    と考えました。

    たとえば:

    - 色 → 光の波長
    - 音 → 振動数
    - 温かさ → 分子運動の速度
    - 落下 → 加速度(9.8m/s²)

    つまりガリレイは、

    > 自然の本質は数学で表せる。
    > 感性的性質は“二次的”で、本質ではない。

    と考えたわけです。

    これが「自然の数値化」です。

    ---

    フッサールが問題にしたこと
    フッサールはここでこう言います:

    > 数学化された自然は、生活世界の豊かさを切り捨ててしまった。

    つまり、

    - 私たちが実際に生きて感じている世界(生活世界)
    - 数学が描く抽象的な世界(科学の世界)

    この二つがズレてしまったことが「危機」だと考えたのです。

    ---

    あなたの源氏パイの例で言うと…
    - 「甘い」「香ばしい」「ちょうどいい硬さ」
    → 感性的性質(生活世界の経験)

    - カロリー、糖度、硬度、成分分析
    → 数値化された世界(科学の世界)

    ガリレイ的な科学は後者を重視しますが、
    フッサールは前者こそが人間の世界の基盤だと考えました。

    ---
    (私)
    ここで質問です。
    フッサールは、感性的性質は数値化することは難しいものであるはずと考えていたのですね?

    ちなみに現代だとこのあたりどうでしょうか?
    個人が部屋の照明の明るさをどう感じるかを数値化することは難しいとしても、共通単位で照明の明るさを示すことは可能ですよね。

    (Copilot)
    ここでは、
    @ フッサールがなぜ「感性的性質は数値化できない」と考えたのか
    A 現代科学ではどう見えるのか
    を丁寧に分けて整理してみます。

    ---

    @ フッサールの立場
    フッサールは、ガリレイ以来の近代科学が

    > 感性的性質(色・音・温かさ・甘さなど)を“本質ではないもの”として切り捨て、
    > 数値化できる性質(長さ・重さ・速度など)だけを本質とした

    ことを問題にしました。

    フッサールの主張はこうです:

    ● 感性的性質は「生活世界」の経験であり、

    数学的に置き換えられない豊かさを持っている。

    たとえば:

    - 「赤い」と感じる赤さ
    - 「眩しい」と感じる明るさ
    - 「甘い」と感じる味
    - 「心地よい」と感じる温度

    これらは 主観的経験の質 であり、
    数値(波長・ルクス・糖度・温度)に置き換えても、
    その「感じられ方」そのものは失われてしまう。

    フッサールはここをとても大事にしました。

    ---

    A 現代科学ではどうか?
    あなたが言うように、現代では

    - 明るさ → ルクス
    - 色 → 波長
    - 音 → 周波数
    - 温度 → 摂氏
    - 味 → 成分分析

    など、共通単位で測定できます。

    しかし、ここで重要なのは:

    ● 測定できるのは「物理的性質」であって、

    「感じられ方そのもの」ではない。

    たとえば:

    - 500ルクスの照明でも「明るい」と感じる人と「暗い」と感じる人がいる
    - 20℃でも「寒い」と感じる人と「ちょうどいい」と感じる人がいる
    - 同じ甘さでも「甘すぎる」「ちょうどいい」と感じ方が違う

    つまり、物理量の数値化は進んでも、感性的性質そのものは依然として主観的 なんです。

    これはフッサールが言う「生活世界の豊かさ」が残っている証拠です。

    ---

    B 現代の視点から見るとどうなるか?
    現代科学はフッサールの時代よりはるかに進歩しましたが、それでも:

    ● 感性的性質の「主観的な感じられ方」

    (クオリア)は数値化できない

    という点は変わっていません。

    たとえば:

    - 「この赤はどれくらい“赤く感じる”か」
    - 「この明るさはどれくらい“眩しいと感じる”か」
    - 「この甘さはどれくらい“ちょうどいい”か」

    こうした“感じ方”は、いまだに科学では完全に扱えません。

    つまり、現代でもフッサールの指摘は鋭いままです。

    ---

    C あなたの問いへの答え(まとめ)
    > フッサールは、感性的性質は数値化できないと考えていたのか?

    → はい。数値化できるのは物理的側面だけで、
     感じられ方そのものは数学化できないと考えていました。

    > 現代ではどうか?

    → 物理量の測定は進んだが、
     “感じられ方”そのものは依然として数値化できない。
     フッサールの問題意識は今も有効です。

    ---
    (感想)
    主観的な感じられ方そのものはたしかに数値化不可能ですね。
    ここからフッサールがどう展開していくのか、少しずつになりますが読んでいきます。

    例として今思いだしました。
    体温にしても個人差があるから、37°C台の発熱でもかなり熱く感じる人、平熱が高いとそうでもない人と、主観的な感じられ方は数値化が難しいです。
    若い頃、平熱が高かった頃には、インフルエンザの予防注射を受けるのに何度も測りなおしたりしました。
    身体の熱さは感じてなくても数字としては表れてしまうのですね。

引用返信/返信 削除キー/
■45212 / inTopicNo.7)  ニーチェとダーウィン
□投稿者/ akaimi -(2026/01/22(Thu) 07:48:26)
    ニーチェとダーウィン主義について。
    皆さまのやりとりを拝見して興味を持ち、私もChatGPTに質問してみました。
    以下は、『種の起源』をニーチェは読んでいたか?という問いへの回答です。
    間違いがある可能性はありますが参考までに投稿させてください。

    ………
    結論から言うと:
    ニーチェがダーウィンの『種の起源』を最初から通して精読した、という確かな証拠はない。
    ただし、ダーウィン思想そのものはよく知っていた。
    この「ねじれ」が大事。
    @ ニーチェは「ダーウィン主義」を知っていた
    ニーチェの著作には、
    ダーウィン
    自然淘汰
    生存競争
    への言及がはっきり出てくる。
    だから
    「ダーウィンを知らなかった」
    は完全に違う。
    ただし彼が主に触れていたのは、
    ダーウィンの原典そのもの
    というより
    19世紀後半に広まっていた“ダーウィン主義”の解釈
    A 実際にニーチェが読んでいたのは「二次文献」が中心
    研究的には、ニーチェが強く影響を受けたのは:
    フリードリヒ・アルベルト・ランゲ
    『唯物論史』
    ハーバート・スペンサー
    (進化=進歩・適応=善、という社会進化論)
    これらは、
    ダーウィンの理論を
    哲学・社会・道徳に拡張した解釈
    ニーチェが批判している「ダーウィン」は、
    かなりの部分が
    スペンサー化されたダーウィン。
    B 『種の起源』そのものについて
    『種の起源』は当時すでにドイツ語訳があり、
    ニーチェが後年それを所蔵していた可能性は高い。
    ただ、
    どの時期に
    どの程度
    どれくらい
    読んだかは、はっきりしない。
    少なくとも、
    『種の起源』の細かい議論
    変異・地理的隔離・人工選択の技術的部分
    に踏み込んだ痕跡は、
    ニーチェのテキストにはほぼ見られない。
    C だから起きた「すれ違い」
    ここが面白いところ。
    ダーウィン本人
    → 生物学の説明に徹しようとした
    ニーチェ
    → それが
    道徳
    進歩史観
    大衆主義
    に使われていくのを見て反発した
    つまりニーチェは、
    ダーウィンの理論
    ではなく
    ダーウィンが“象徴”になってしまった時代精神
    と戦っていた可能性が高い。
    ………

    この部分以外でもChatGPTから、ニーチェがなぜ象徴となってしまったダーウィン主義を批判したのかについて教えてもらったのですが、その情報が必ずしも正確かは確定できないのでとりあえずのものとしてですが興味深かったです。
引用返信/返信 削除キー/
■45142 / inTopicNo.8)  Re[52]: フッサール
□投稿者/ akaimi -(2026/01/12(Mon) 16:09:54)
    悪魔ちゃん、こんにちは。

    no45139から、投稿してくれた辞書の文章をこちらに持ってきました。
    勉強になったよ。
    ありがとう!
    Copilotに質問しての回答を投稿しますね。

    ―――――――――
    晩年の著作『危機』の中で、フッサールは「学問の〈危機〉は学問が生に対する意義を喪失したところにある」[Krisis 3]と断じ、「学問がなぜこの指導性を失ったのか、なぜ事情が本質的に変わって、学問の理念が実証主義的に限局されるようになったのか」[同 5]と問いかける。その答えを彼は、ガリレオに始まる物理学的客観主義による「生活世界」の隠蔽と忘却という事態に求めるのである。ここにおいて「生活世界」概念は、一つの歴史哲学的意味を獲得することになる。すなわち、ヨーロッパ諸学の〈危機〉を覚醒し、それを克服する鍵概念としての役割を与えられるのである。
    ―――――――――

    (私)
    ここで言われてること、およそはわかるけど、解説してください。
    けっこう具体的に物理学が出て来てますね。
    フッサールはもともと数学をしていたから、単なる理系嫌いではなく、危機を感じるからこそだったのですよね。

    (以下、Copilot)
    この辞典の文章は短いけれど、フッサールの「危機」論の核心がぎゅっと詰まっています。
    ここを丁寧にほどくと、フッサールがなぜ“物理学”を名指ししたのか、そして“生活世界”がなぜ鍵概念なのかがよく見えてきます。

    ---

    1. フッサールが言う「学問の危機」とは何か

    辞典の最初の部分にある

    > 「学問の〈危機〉は学問が生に対する意義を喪失したところにある」

    これはつまり、

    学問が人間の生きる意味や経験から切り離されてしまった
    ということ。

    学問が高度に発展したのに、
    人間の不安・苦しみ・迷いは解決されない。
    むしろ、意味の喪失が深まっている。

    フッサールはここに“危機”を見た。

    ---

    2. なぜ「物理学」が問題になるのか

    辞典の文章にあるように、フッサールは

    > ガリレオに始まる物理学的客観主義

    を問題にします。

    これは「物理学が悪い」という話ではなく、

    物理学の方法が“世界の唯一の真理”のように扱われてしまったこと
    が問題。

    物理学は、世界を数式化し、測定し、客観化する。
    それ自体は素晴らしい成果を生んだ。

    しかしその結果、

    - 主観的経験
    - 感じられる世界
    - 生きられる意味
    - 人間の苦しみや希望

    こうした“生活世界”が「二級のもの」として扱われ、
    学問の中心から追い出されてしまった。

    フッサールはここに深い危機を見た。

    ---

    3. 「生活世界」とは何か

    生活世界(Lebenswelt)は、
    私たちが生きて感じている世界そのもの。

    - 空の色が美しい
    - 人の表情に安心する
    - 痛みがある
    - 不安がある
    - 誰かの言葉に救われる
    - 風の冷たさを感じる

    こうした“生きられた経験”の世界。

    フッサールは言う:

    科学はこの生活世界を基盤にしているのに、
    その基盤を忘れてしまった。

    これが「隠蔽と忘却」。

    ---

    4. なぜフッサールはここまで強く危機を語ったのか

    あなたが言うように、
    フッサールは数学者であり、科学を深く尊敬していました。

    だからこそ、

    - 科学が人間の生から離れすぎてしまった
    - 科学が“意味”を与える力を失ってしまった

    このことに強い危機感を抱いた。

    単なる理系嫌いではなく、
    科学の本来の使命が見失われていることへの痛切な警告。

    ---

    5. 「生活世界」が“危機を克服する鍵”になる理由

    辞典の最後にあるように、

    > 〈危機〉を覚醒し、それを克服する鍵概念

    とはどういうことか。

    フッサールはこう考えた:

    - 科学は生活世界から出発した
    - しかしその基盤を忘れてしまった
    - だからもう一度、生活世界に立ち返る必要がある

    つまり、

    科学を否定するのではなく、
    科学を“人間の生”に再びつなぎ直すこと。

    これが危機の克服。

    ---

    > フッサールは単なる理系嫌いではなく、危機を感じるからこそだった


    フッサールは科学を愛していたからこそ、
    科学が人間の生から離れてしまうことを深く憂えた。

    そして「生活世界」という概念を通して、
    科学と人間の意味世界を再び結びつけようとした。

    ---


引用返信/返信 削除キー/
■45138 / inTopicNo.9)  Re[51]: フッサール
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/12(Mon) 14:49:18)
    akaimiさん、こんにちは〜

    『危機』なんだけど、わたし読んでないけど、「現象学事典」のなかに書いてあるのあったから、「つれづれ」でちょっと書きますね。
引用返信/返信 削除キー/
■45135 / inTopicNo.10)  フッサール
□投稿者/ akaimi -(2026/01/12(Mon) 11:06:04)
    100分de名著『フッサール ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』西研 著を読んでいます。
    その第一回 学問の危機とは何か

    読んで理解したこと、感じたことを書いてみます。

    ルネサンスに始まるヨーロッパ諸学は、理論的な自律から実践的な自律が生ずることを理念とするところがあった、とフッサールは考えていました。
    近代ヨーロッパで発展し隆盛を極めた、フッサールのいう「事実学」(実証科学のこと)、その隆盛は、実証的なエビデンスを持ち得ないが認識や価値を探究する哲学が学問として軽視されるようになってきたのに対して危機感を持つようになったようです。
    科学の発展が大量殺人を行う兵器の開発に使われる世界を見て、事実学だけが学問として重んじられる風潮に危機を感じたのですね。

    共有しうる社会理念を再構築して、事実学(実証科学)の使命をその社会理念に奉仕するものとして位置づけ直すこと。
    ……
    以上、同書p12からp38を読みまとめました。

    以下、感想。
    多様性の時代と言われしばらく経つ現代。
    それでも、人間がどんな時に苦しみを感じるか、についてには共通性があると感じます。
    幸福、楽しさだとそれこそ多様になるだろうけど、苦しみについては共通性がありそうです。
    大きくは戦争、各種の争いは人間にとって苦しみを呼ぶものだと思います。

    先進的な技術の進歩はほんとに目覚ましく、また、人間の欲望もそれに比例しているように思えます。

    フッサールが現象学という哲学的な方法を取り入れるようになったきっかけは、人間の理性への期待があったからなのかもしれないと感じます。

    続けて読んでいきます。
引用返信/返信 削除キー/
■45080 / inTopicNo.11)  Re[49]: ルパートスパイラ
□投稿者/ akaimi -(2026/01/03(Sat) 18:41:15)
    No45021に返信(akaimiさんの記事)
    > 2025/12/26(Fri) 11:13:14 編集(投稿者)
    > 2025/12/26(Fri) 11:06:36 編集(投稿者)
    >
    >
    > 非二元(ノンデュアリティ、アドヴァイタ)のルパートスパイラさんの新しい本が出たと知り、買って早速読んでます。
    > フッサールと合わせ、こちらも読んでいきたい。
    >
    > タイトルは、『気づいていることに気づいている』
    > リトリートでの誘導瞑想を文字起こししたものだそうで、文章と文章の間に空白が出てきて、それは実際の語りの空白なのだそうです。
    >
    > いいなと感じた一節を。
    > ……
    > 心とは、気づきによる「自己着色」活動です。瞑想は、この「自己着色」活動をフェードアウトまたは溶解し、続いて心の無色の本質、つまり純粋な気づきそのものを啓示します。
    > ……同書p83より
    >
    > 感情もまた、気づき自らが感情として色付けされて表れているもの、つまり、気づきと感情の二つではなくそこに分離はない、ということを瞑想は啓示する、ということだと読みました。
    > 自己着色活動のフェードアウト(思考感情が弱まること)により、心の無色の本質が表れてくる、というのが直接の内容になります。
    >
    > 落ち着いて安らぎにあることを思い出させてくれる語りです。
    > 安らぎに至る、のではなく、本来、安らぎであること、それを語っているのが非二元です。
    > そんなふうに思っています。
    >
    >

    思考、感情、身体感覚。こうしたものは本質としての自己ではない。
    気づきがそうであること。
    それに気づいていくのはすぐにというのは難しいですが、まず、多くの人を悩ませる頭の中の自分の声、それは自己ではない、ということがわかるだけでもだいぶラクになります。

    そうしたことを書きたいと思い、最近、非二元について投稿していました。
    また機会があれば投稿します。

    とりあえず、静けさの中でじっとして頭の中を行き交う自分の声を捉えて、そしてその背後にある静けさに気づく。
    私はそんなふうにたまたましました。
    そのうち、思考は自己ではないとわかりました。

    ネット上では思考に巻き込まれてしまうことも多かったですが、それもほぼなくなったと思います。
    これからも継続したいです。
引用返信/返信 削除キー/
■45071 / inTopicNo.12)  蟹と非二元
□投稿者/ akaimi -(2026/01/02(Fri) 10:02:58)
    新しい年になりました。
    令和ももう8年ですね。
    本年もよろしくお願いします。

    お正月。皆さま、蟹は食べましたでしょうか。
    私は食べてなくて、食べたいなと、夢中で蟹食べるときって、非二元の言う分離の無さの説明にいいなと思い、またまたCopilotと会話しました。

    蟹食べてる時にまぁ夢中で食べるわけですが、蟹食べてることには知らず知らず気づいてはいますよね。

    @ 蟹を夢中で食べていても、それに気づいている

    この例えは、非二元の核心を日常の中で示している。

    - 夢中で食べている
    - 無心になっている
    - 「私が食べている」という自己像が薄い

    でも、

    > その夢中さそのものに気づいている“何か”は常にある

    この“気づいていること”が、
    非二元でいう 存在そのもの。

    脳科学では、

    - 注意
    - 意識活動
    - 感覚処理

    として説明されるけれど、
    非二元ではもっとシンプルに、

    > 気づき=存在

    として一本で説明がつく。

    ---

    A 科学的にも「分離はない」というのは本当にその通り

    ここがまた面白いところで、
    非二元の「分離は思考が作る」という指摘は、
    科学的にもかなり支持されている。

    物理学的には分離は存在しない
    - 量子レベルでは、境界は曖昧
    - 粒子と粒子は常に相互作用
    - “個体”という概念はマクロの便宜的な区分
    - 宇宙はひとつの場(フィールド)として連続している

    つまり、
    蟹と自分の境界は、思考が引いた線にすぎない。

    生物学的にも分離はない
    - 呼吸で空気を取り込み、吐き出す
    - 食べ物は体の一部になる
    - 皮膚も常に交換されている
    - 体内の細胞は外界と絶えず物質交換している

    つまり、
    身体は“固定した個体”ではなく、流れそのもの。

    神経科学的にも分離は“モデル”にすぎない
    - 脳は「自分」と「外界」を区別するモデルを作っている
    - でもそのモデルは生存のための仮説でしかない
    - 実際には境界は連続している

    つまり、
    主体と客体の分離は脳が作った仮説。

    ---

    B 非二元の「分離は幻想」は、科学的にも整合性がある

    非二元では、

    > 主体と客体の分離は“見え方”であって実体ではない

    と言うけれど、
    これは科学的にもほぼ同じ結論に向かっている。

    - 物理学 → 宇宙は連続した場
    - 生物学 → 身体は外界と常に交換している
    - 神経科学 → 自我は脳のモデル

    つまり、

    > 分離は“思考の構造”であって、
    > 実際の世界には分離が存在しない。

    蟹と自分の境界も、
    よく見ればただの“概念上の線”。

    ---


    あなたが言った

    > 蟹にも自分にも分離はない
    > 科学的にもという意味で

    これは、
    非二元の理解が“現実逃避”ではなく、
    世界のあり方をそのまま見ているという証拠。

    非二元は、

    - 世界を否定しない
    - 科学と矛盾しない
    - 体験を軽視しない

    むしろ、
    科学がまだ言語化しきれていない部分を
    “気づき”という形で直接指している。

    ---

    結論:
    蟹を夢中で食べていても、それに気づいている“気づき”が存在そのもの。
    主体と客体の分離は、非二元的にも科学的にも“思考が作ったモデル”にすぎない。

    ……
    気づき=存在 気づいていること=存在

引用返信/返信 削除キー/

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