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■45634 / inTopicNo.1)  100分de名著 ウィトゲンシュタイン
  
□投稿者/ パニチェ -(2026/04/02(Thu) 21:58:34)
    第3回〜4回を先読みしてみた。

    粗っぽい感想としてはやっぱ私の興味をそそるような内容ではなかった。

    言い換えればパニチェの興味はウィトゲンシュタイン(哲学)にあるのではなく、〈私〉にあるからだろうな、ということになる。
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■45633 / inTopicNo.2)  ウィトゲンシュタイン
□投稿者/ パニチェ -(2026/04/02(Thu) 20:12:57)
    『100分で名著』のお陰でニーチェクラブでもウィトゲンシュタインが再び注目されてきた。

    ザビビのふくろうさん元気かなぁ〜。

    NHKの放送に合わせ戻ってきてくれたら嬉しい。


    (゚Д゚)ノ お〜〜〜〜〜〜〜い♪
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■45601 / inTopicNo.3)  うましかさんとのレス交換に触発されて
□投稿者/ パニチェ -(2026/03/29(Sun) 08:13:58)
    〈私〉に関する書きとめ

    ・ネット検索によって言語ゲーム上の新たな語用には対応可能なプレーヤーにはなりえるが、新たな語用をつくりたすプレーヤーにはなりえない。何故なら後者をなしえるのが“心”の存在であり、“心”の形成に「〈私〉の存在」は必須条件であるから。

    ・〈私〉が存在することは汎用性があるが、〈私〉の存在自体は汎用性がないことがその本質である。

    ・輪廻転生を肯定するならばその主体たる〈私〉の存在は認めざるをえない。その意味において〈私〉は阿頼耶識あるいは阿摩羅識と置き代えれるが汎用性がない阿頼耶識あるいは阿摩羅識である。

    ・〈私〉の存在が特異点であるのは「そこから世界が開かれている」ことや「現時点の物理学が通用しない地点」であること、汎用性がない地点であるということ。前者はビッグバン宇宙論の特異点と共通するが後者は相容れない。

    ・科学の対象である自然の斉一性や汎用性、再現性の網の目からすり抜けるのが〈私〉の存在の本質であることからして、〈私〉は物理的現象には還元されえない。この延長線上に現に今ここにある〈私〉の存在は〈魂〉の存在証明となりえるのではないか?

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■45422 / inTopicNo.4)  Re[13]: pipitさん&うましかさんへ
□投稿者/ 田秋 -(2026/02/24(Tue) 21:06:28)
    皆さま、箍という言葉が出てきたので一寸だけ失礼します。

    孫悟空の頭の輪っかは【緊箍児(きんこじ)】と言います。

    また孫悟空が得意とする如意棒の正式名称は【如意金箍棒】と言います。如意棒の形状について西遊記第3回に「両端に金の箍が嵌まった黒い鉄の棒」とあります。

    失礼しますた。m(_ _)m



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■45421 / inTopicNo.5)  pipitさん&うましかさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2026/02/24(Tue) 20:06:37)
    こんばんは、pipitさん、うましかさん。レスありがとうございます。
    お邪魔にならないようにこちらで一応レスしておきますが、返信はお気遣いなく♪^^

    No45413に返信(pipitさんの記事)
    > No45408
    >>私は以前は“私”を「束」という表現を使ってました。
    >>立場や役割、性別や個性などなど、さまざまな細い1本1本が集まった束。

    >>父親、夫、ビジネスマン、男、友人、短気などなど。。。

    >>でもその1本1本は他者にも当てはまる言語化可能なものであって〈私〉そのものではない。
    >>もしこの束に〈私〉のような芯がないとすれば仏教の無我と完全に一致するだろう。

    >>でも、もし芯がないとすれば「(永井均氏の表現を借りれば)この目からだけ現実に世界が見えており、この体だけが殴られると現実的に痛く、この悲しみだけが現実的に直接的に悲しい唯一の存在者」となりえるのか?

    >>他者との決定的な違いをもらすこの差異はどこから生じているのか?
    >>言語化不可能な透明無味無臭の芯が存在する証左ではないのか。。。<

    > 「束ねる働き」があるにしても、集まるものがそれぞれ違いますもんね。直接知るのは直接集まってくるものだけだし(それ以外の実際の働きは推測だし)・・・言語化不可能の唯一性(芯)が実存するという考え方なのかなぁ。
    > 全然わかってないと思うけど、今の段階ではそのような感想を持ちました。

    結論だけ。〈私〉というのは考え方でもないですし、論理的思考や哲学的思考から至る対象でもないですね。
    ただそこ(ここ)にあるものに気づくかどうかだけです。^^

    > 永井均先生たちの議論、私には難しすぎて、わたしが取り組むにはまだまだ先になりそうです(;^_^A
    > 道徳論とか興味あるんですけどね(o^―^o)v

    了解しました。縁があればでいいと思います。


    No45417に返信(うましかさんの記事)
    > >私は以前は“私”を「束」という表現を使ってました。

    > コッソリお伝えしますが(;´・ω・)
    > うましかは桶を束ねる「箍」に喩えるのがお気に入りでした(・∀・)

    うまい表現だと思いますよ。
    中が空(無自性)であれば「束」より、「箍」の方がしっくりくるでしょうね。
    その場合は〈私〉と無我が一致しますが、パニチェ的には時期尚早、あるいは相いれず、ってところです。

    > >でもその1本1本は他者にも当てはまる言語化可能なものであって〈私〉そのものではない。
    > つまりそれについては言語化不可能、語ることはできないということですか

    そうです。言語の機能として一般化や共有化がありますが、これらの網目をすり抜けるのが〈私〉の本質です。

    > とすれば、表出せず黙するかぎり、パニチェさんの〈私〉は維持できるんじゃないでしょうか(。´・ω・)? 
    > 言語表現すると「他者にも当てはま」り得るから、、、

    無理矢理言語化したとしても、黙したとしても、〈私〉の存在には影響を与えることはありませんね。
    事実、今、ここにあることは、この世界のあらゆる存在や事実よりも、確かであり明確ですから。^^

    > とまあ、フィッカーに宛てたウィトゲンシュタインの受け売りみたいでスミマセン
    > 聞き流してくださいませm(__)m

    ごめんなさい、ついついレスしてしまいました。^^;

    > *******
    >
    > ところで、私のお気に入りの箍つき桶ですが、不満なことがひとつあります
    > たとえ箍がはめられていても桶は自らうごけないということ

    > パニチェさんの〈私〉は、お喋りしたり黙ったり、それ以外にもできますよね?

    いえ、〈私〉自体は何もできません。存在するだけ、あるいは存在そのものです。
    見るのは目(眼識)だし、喋ったり黙ったりするのは口だし、大概は五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)のなせる技です。

    > (もちろん眠い〈うましか〉の代わりに眠ることはできないでしょうけど (=_=))
    > たぶん空っぽな桶の箍としては、うらやましいかぎりです。。。

    「箍」の方が諸法無我とは相性がいいと思います。

    > 【追記】

    > >つまりそれについては言語化不可能、語ることはできないということですか

    > 言語化できないというのは、
    > それ=対象を適切に表現できないということか、
    > そもそも表現がまったくできないということか、
    > 言語を絶しているということか、

    はい。そもそも表現が全くできません。言語を絶しています。

    > 言語に先んじているということか、
    > だとしたら言語習得前の生来的なものということか、、、

    その通りです。言語を習得する主体も〈私〉ですね。
    ですから言語に先んじた言語習得前の生来的なものはず(ここは推測ですが)です。

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■45312 / inTopicNo.6)  オールドメディアに未来はない
□投稿者/ パニチェ -(2026/02/11(Wed) 08:50:47)
    2026/02/11(Wed) 14:42:14 編集(投稿者)

    今回、自民党が大勝したのはマスゴミがよく使う“風”とか“旋風”なんて一時的なもんやないで。

    高市は総裁選に出馬する以前から自身の国家観を明確に表明し、目指したい国のあり方をずっと主張してた。

    前々回の総裁選でも党員党友投票ではトップだったにもかかわらず、媚中や媚韓、護憲派議員や公明党との選挙協力で当選を目指す屁たれ議員によって阻止された。

    今回の自民大勝の一番の原因は、中改連の足し算しか知らない選挙目当ての野合失敗でもなく、高市批判を主とした左翼系政党の戦略ミスでもなく、無党派層という大きな山が動いたということ。

    今回の選挙で大敗したのは中道だけではない。
    せっせと高市下げをやってたオールドメディアが予測通り完敗した。
    兵庫県知事選が分水嶺となり、前橋市長選、今回の総選挙とこれで3連敗やな(笑)。

    オールドメディアとネットの最大の違いは、前者が一方的な情報発信であるのに対して、後者はインタラクティブだということ。

    くだらない意見はネットでは炎上するし、フェイクも見破られる。情報を取りに行くネット民はメディアリテラシーに長けているし、どっからでも情報を拾ってきては矛盾を追及したり糾弾する。

    玉石混淆なのはネットもオールドメディアも同じ。
    自分たちの誤情報発信や偏向報道を棚上げして、ネットによるデマやフェイク画像の拡散の危うさのみを訴えるアホコメンテーターはネット民や国民をなめすぎとるやろ。

    偏向報道やこれに便乗する御用学者、頭お花畑の左翼系コメンテーターやMC、番組に使われたいために忖度発言をし続けるアホタレントなどなど一方的な情報を垂れ流すマスゴミに未来はない。

    オールドメディアでは盛んに「分断」とか「対立」って言葉が用いられるが、そんなもんは言葉のチョイスの問題でしかないやろ。意見の相違があることは当たり前。それが表立たないのは独裁国家。意見の相違を認めつつも感情的な対立にしないということが重要なんとちゃうか?

    日本人としての本来の美徳のひとつでもある寛容の精神でもって意見の相違は“Agree to disagree”あるいは止揚されなくてはならない。

    結論から言えばこの国の無党派層はマスゴミとそれにたかるブンブン五月蠅いハエみたいなアホコメンテーターに巻かれるほど馬鹿ではないし、偏向報道に左右されるような畜群(ニーチェによる哲学用語:ボーカルマイノリティに盲目的に追従する確たる自己を持たない弱者の群れ)ではないというこっちゃ。

    いつまでたっても現状維持で進化しないオールドメディアに未来はない。

    PS.ちなみに300議席以上の自民党の圧勝を予測していた唯一のメディアは選挙ドットコムだった(306議席予測)。
835×493 => 600×354

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■45237 / inTopicNo.7)  フローラさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/27(Tue) 22:45:35)
    こんばんは、こんにちは、フローラさん。レスありがとうございます。

    No45233に返信(floraさんの記事)
    > 何らかのお役に立ててよかったです^^

    はい。ありがとうございました。
    特に『権力への意志』にも『偶像の黄昏』にも採用されていなかった最後の二つのアフォリズムは参考になりました。

    > 『ノートブック』は日記のようなものかな〜と想像していたんですが、実は後の著作の草案を綴ったものだったんですね〜・・・

    先に紹介したようにニーチェは自身の主著として『権力への意志(力への意志)』の発刊を考えていたようで、そのための草案だったと思います。

    ニーチェは1884年4月7日にオーヴァべックへの手紙で「私のツァラトゥストラによって私の哲学のための玄関ホールを建てたので、いよいよこの哲学の竣功に次の五年間を費やす決心がついた。』と伝え、1886年9月2日に母と妹への手紙で「今後4年のうちということで、四巻からなる主著を完成させ、表題だけでも人を怖れさすに足るもので〈力への意志──あらゆる価値転換の試み〉というものです」と述べています。

    何故、ニーチぇがこの主著を断念したかについての定説はありませんが、この書籍の主題は人間やその生も含めた世界を「権力への意志(力への意志)」という原理で説明しようとするものであり、これはニーチェが批判し続けていた形而上学的な新たな概念であり、普遍的な真理のようなものになってしまうため、この矛盾に気づき断念したのではないか、と思っています。

    真理なんてものはないというのがニーチェの哲学的信念でしたから。


    『われわれは認識のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有(も)っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである(悦ばしき知識 第354番)』

    『真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような種類の誤謬である。生にとっての価値が結局は決定的である。(力への意志 第493番)』

    『「これこれのものはこうであると私は信ずる」という価値評価が、「真理」の本質にほかならない。(力への意志 第507番)』

    『真理とは何か?──惰性のことである。精神的力の最小の消費その他という満足を生ぜしめる仮説そのもの(力への意志 第537番)』

引用返信/返信 削除キー/
■45233 / inTopicNo.8)  Re[9]: パニチェさんへ
□投稿者/ flora -(2026/01/26(Mon) 00:06:34)
    2026/01/26(Mon) 02:31:52 編集(投稿者)

    こんばんは、こんにちは。

    何らかのお役に立ててよかったです^^

    『ノートブック』は日記のようなものかな〜と想像していたんですが、実は後の著作の草案を綴ったものだったんですね〜・・・


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■45231 / inTopicNo.9)  フローラさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2026/01/25(Sun) 18:11:23)
    2026/01/26(Mon) 07:40:34 編集(投稿者)

    こんばんは、おはようございます、フローラさん。レスありがとうございます。

    No45227に返信(floraさんの記事)
    > パニチェさん、こんにちは。
    > >“ニーチェ 22の覚書”でググってみたところ「ニーチェの『最後の22のノートブック』1886年から1889年にかけてのニーチェの最後のノート(遺稿)をまとめたもの」というのが出てきました。

    > はい、そうだと思います。その『最後の22のノートブック』は翻訳されているのかどうか、私には分かりませんので、ダーウィン/ダーウィニズムに関係する箇所を英語から日本語に訳して見ました。もちろん哲学のことはまったく分かりませんし、ましてニーチェのことは・・ ですので訳に関しては誤訳も有ると思いますが、ご参考になれば。
    > 訳はこのリンクから
    > ttps://archive.org/details/fn-notebooks-1886-1889/page/9/mode/1up?q=darwin
    > 頁番号、エントリー番号、書かれた時期の順です。

    フローラさん、ありがとうございます。
    時間かかったでしょうに、お手間かけましたが大変参考になりました。
    訳していただいたものがどのアフォリズムに対応するのか探してみました。

    > 1)126―127頁7 [25] 1886年末―1887年春 
    >
    > 反ダーウィニズム:器官の使用は、その起源を説明するものではない。むしろ、その逆である。ある特性が形成される最も長い期間において、それは個体を保存することはなく、個体にとって何の役にも立たない。ましてや、外部環境や敵との闘争においてはなおさらである。結局のところ、「役に立つ」とは一体何なのか?「何に関して役に立つのか」を問わなければならない・・・・

    上記は『権力への意志 第647番』ですね。

    > 2)132頁 7 [44]、1886年末 -1887年春
    > ダーウィニズム生物学における「有用」とは、すなわち他者との闘いにおいて有益であることを証明する意味である。しかし私にとって、闘いにおける有用性とは別に、より強くなる感覚、実際の進歩そのものから生まれる感覚こそが、闘争意志を生み出す唯一の源泉である。

    上記は『権力への意志 第649番』ですね。

    No45228に返信(floraさんの記事)
    > 3)270−271頁 [7] (142) , 1888年春

    > 考えるべきこと:運命的な神の摂理への信仰――これまでに存在した中で最も手と理性を麻痺させる信仰――が、いまだにどの程度存在しているか。「自然」「進歩」「完全性」「ダーウィニズム」といった公式の下で、幸福と徳、不幸と罪悪が不可分であるという迷信の下で、キリスト教的な前提と解釈がいまだにどの程度、その余生を生き続けているか。物事の成り行きへの、あの荒唐無稽な信頼、「生命」への、「生命本能」への、あの正直な人間の諦観;誰もがただ義務を果たせば全てはうまくいくという信念;そんなものは、ある前提がなければ意味をなさないのだ。善の観点からの事物の管理。現在の哲学的感受性である宿命論さえも、神による摂理へのこの最も長い信仰の結果であり、無意識の結果である。すなわち、万事がどう進むかは我々の手に委ねられていないかのように(― まるで我々がそれを放っておけるかのように、それがどう機能するかは: 各個人は絶対的現実の一形態に過ぎない―) ・・・

    これは引用していませんでしたが『権力への意志 第243番』でした。

    > 4)645―646頁14 [123]、1888年春
    > 反動(Gegenbewegung)反ダーウィン主義。私にとって最も驚くべきは、人々の主要な物語の概観である。常に、今やダーウィンとその学派が提示する、あるいは提示しようとするものとは正反対のものを心に思い浮かべるのだ:より強い者、より良く適応した者への選択、種の進歩といったもの。まったく逆の現象が手に取るようにわかる:幸運な事例の排除、より慎重な高次タイプの無用さ、中間のタイプにおいてさえ中庸の必然的支配。仮に人間が生物の中で例外である理由を示していないとしても、私はダーウィン学派があらゆる点で自らを欺いているという偏見に傾いている。その力への意志、すなわちあらゆる変化の究極的根拠と本質を再び認めるこの意志こそが、例外と幸運を支持する選択がなぜ持続しなかったかを正当化する手段を与えてくれる。最強で最も幸福な者も、弱者の臆病さを持ち、多数派が敵対するならば、組織化された群集本能の前では弱者となるのだ。私の世界全体像(Gesammtaspekt)は、今日人類の上に懸けられている頂点的価値において、幸運な事例や選択型が優勢ではなかったことを示す。むしろ衰退型が優勢だったのだ―おそらくこの望まれない悲劇ほど、この世で興味深いものはないだろう... 奇妙に聞こえるかもしれないが:常に強者を弱者から、幸運な者を不運な者から、健全な者を退廃と遺伝的負担から守らねばならない。道徳の現実を定式化しようとするなら、それが道徳である:中間層は例外よりも価値があり、中間層の上に退廃構造が君臨し、無への意志が生存意志に優越する;これが総合目標(Gesammtziel)である・・・

    『権力への意志 第685番』ですね。

    No45229に返信(floraさんの記事)
    > 5)656―657頁14 [133] 1888年春

    > 反ダーウィン主義人間の家畜化:それらが持つ明確な価値とは何か?あるいは家畜化に明確な価値は存在するのか?―後者を否定する根拠がある。ダーウィン学派は我々に反対を説得しようと大いに努力しているが、彼らは家畜化の影響が深く、根本的なものであることを望んでいる。一方、我々は従来の立場を堅持する:家畜化の影響―あるいは退化―が極めて表層的なものであることは証明されていない。そして人間の手から逃れたもの、あるいは逆に飼育されたものは、ほぼ即座に自然状態へ回帰する。種は不変である:自然を「変質させる」ことは不可能だ。自然は生存競争;脆弱な性質の死と最も頑強で優れたものの生存;に基づいて計算されており、結果として我々は本質的な完全性への安定した成長を想定するのだ。・・・

    > 6)823―824頁 15 [120]、1888年春

    > 善とは何か?― 力の感覚を高め、力への意志を高め、力を増大させるもの、人間においても。悪とは何か?― 弱さから生じるものすべて。幸福とは何か?― 力が再び増大した感覚、― 再び、克服された抵抗。
    > 満足ではなく、より多くの力。平和など全くなく、より多くの戦争。美徳ではなく、効率性(ルネサンス様式の美徳、ヴィルトゥ、道徳的自由の美徳)。弱く失敗したものは滅びるべきだ:生命の至高の命令。そして哀れみを美徳にしてはならない。あらゆる悪徳よりも危険なものとは何か?―哀れなことだ、あらゆる失敗と弱さを伴うキリスト教・・・

    上記の二つのアフォリズムはどこに該当するのか分かりませんでしたが、大変参考になりました。
    ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■45229 / inTopicNo.10)  Re[17]: :『ノートブック』該当部分 3
□投稿者/ flora -(2026/01/25(Sun) 02:06:07)
    5)656―657頁14 [133] 1888年春

    反ダーウィン主義人間の家畜化:それらが持つ明確な価値とは何か?あるいは家畜化に明確な価値は存在するのか?―後者を否定する根拠がある。ダーウィン学派は我々に反対を説得しようと大いに努力しているが、彼らは家畜化の影響が深く、根本的なものであることを望んでいる。一方、我々は従来の立場を堅持する:家畜化の影響―あるいは退化―が極めて表層的なものであることは証明されていない。そして人間の手から逃れたもの、あるいは逆に飼育されたものは、ほぼ即座に自然状態自然状態へ回帰する。種は不変である:自然を「変質させる」ことは不可能だ。自然は生存競争;脆弱な性質の死と最も頑強で優れたものの生存;に基づいて計算されており、結果として我々は本質的な完全性への安定した成長を想定するのだ。

    反ダーウィン主義人間の家畜化:それらが持つ明確な価値とは何か?あるいは家畜化に明確な価値は存在するのか?―後者を否定する根拠がある。ダーウィン学派は我々に反対を説得しようと大いに努力しているが、彼らは家畜化の影響が深く、根本的なものであることを望んでいる。一方、我々は従来の立場を堅持する:家畜化の影響―あるいは退化―が極めて表層的なものであることは証明されていない。そして人間の手から逃れたもの、あるいは逆に飼育されたものは、ほぼ即座に自然状態へ回帰する。種は不変である:自然を「変質させる」ことは不可能だ。自然は生存競争;脆弱な性質の死と最も頑強で優れたものの生存;に基づいて計算されており、結果として我々は本質的な完全性への安定した成長を想定するのだ。
    多様な個体が群衆の中で過密状態に晒される。あらゆるものが同意を得るために競い合う。生物は特定の危険から身を守る外見的特徴を持ち、脅威のない環境下でもそれらを失わない…もし衣服が不要な場所で生きるなら、彼らは身を隠し、決して環境に近づこうとはしない。彼らは過剰とも言えるほど美しいものを選び取る。それは我々の種族の美しさをはるかに超えているのだ!

    実際、最も美しい組み合わせは、最も恵まれない生き物同士、最大から最小まで見られる。雄と雌はほとんど常に、偶然の出会いを活用し、決して選り好みしない。気候や食物の変化。しかし真実は、全く無関心である。過渡的な形態は存在しない…一つの種(Eine)の異なるタイプが戻ってくる。経験が示すのは、その結合は不稔に終わり、一つのタイプが支配者(Herr)として戻ってくるということだ。本質の発達が進むと言う者もいる。それは全く根拠を欠いている。各類型には限界がある:それを超えると、発達は生じない。それまでは絶対的な規則性が保たれる。原始的な性質こそが現在の祖先であるべきだ。しかし第三紀の動植物相を見ると、それは未開の地としか思えず、そこには他では見られない類型や互いに関連性のない類型、さらには他では存在しない類型さえ存在する。

    6)823―824頁 15 [120]、1888年春

    善とは何か?― 力の感覚を高め、力への意志を高め、力を増大させるもの、人間においても。悪とは何か?― 弱さから生じるものすべて。幸福とは何か?― 力が再び増大した感覚、― 再び、克服された抵抗。
    満足ではなく、より多くの力。平和など全くなく、より多くの戦争。美徳ではなく、効率性(ルネサンス様式の美徳、ヴィルトゥ、道徳的自由の美徳)。弱く失敗したものは滅びるべきだ:生命の至高の命令。そして哀れみを美徳にしてはならない。あらゆる悪徳よりも危険なものとは何か?―哀れなことだ、あらゆる失敗と弱さを伴うキリスト教が…
    ある種の人類を置き換えるものは何だろうか?しかしこれは単なるイデオロギーに過ぎない―ダーウィニストたちよ。まるで各種が安堵したかのように!私にとって問題は、人類種内における階層構造、その全体的な進歩にある。人類の類型間の階層問題―それは常に存在し、これからも存在し続けるだろう―ではない。私は一つの上昇する生命の類型と、もう一つの荒廃・衰退・弱さという類型を区別する。もしあなたが、この二つの類型間の序列問題がそもそも存在すると考えるなら?
    私は一つの上昇する生命の類型と、もう一つの荒廃・衰退・衰弱の類型を区別する。もしあなたが、この二つの類型の間にある位階の問題が、何らかの形で定まっていると信じるなら…?

    この類型は往々にして以前から存在していた:しかし幸運の一撃として、例外として―決して意図的なものではない。むしろ彼はただ最善を尽くして戦ったが、阻まれた―常に大多数であり、あらゆる種類の凡庸さの本能、さらに言えば狡猾さ、機微、弱者精神をその対抗手段として持ち、結果として「美徳」を… …彼はほとんど恐怖そのものだった。そして恐怖ゆえに、あなたは反対のタイプを望み、育み、達成したのだ。家畜、群れ、病んだ動物たち、キリスト教徒たちを…


引用返信/返信 削除キー/
■45228 / inTopicNo.11)  Re[16]: :『ノートブック』該当部分 2
□投稿者/ flora -(2026/01/25(Sun) 02:01:59)
    3)270−271頁 [7] (142) , 1888年春

    考えるべきこと:運命的な神の摂理への信仰――これまでに存在した中で最も手と理性を麻痺させる信仰――が、いまだにどの程度存在しているか。「自然」「進歩」「完全性」「ダーウィニズム」といった公式の下で、幸福と徳、不幸と罪悪が不可分であるという迷信の下で、キリスト教的な前提と解釈がいまだにどの程度、その余生を生き続けているか。物事の成り行きへの、あの荒唐無稽な信頼、「生命」への、「生命本能」への、あの正直な人間の諦観;誰もがただ義務を果たせば全てはうまくいくという信念;そんなものは、ある前提がなければ意味をなさないのだ。善の観点からの事物の管理。現在の哲学的感受性である宿命論さえも、神による摂理へのこの最も長い信仰の結果であり、無意識の結果である。すなわち、万事がどう進むかは我々の手に委ねられていないかのように(― まるで我々がそれを放っておけるかのように、それがどう機能するかは: 各個人は絶対的現実の一形態に過ぎない―)
    キリスト教に負うもの:あらゆる概念への罪と罰の概念の介入 道徳への臆病さ 物事の成り行き(「より良き」方向へ)への愚かな信頼 自己に対する心理的虚偽。

    4)645―646頁14 [123]、1888年春
    反動(Gegenbewegung)反ダーウィン主義。私にとって最も驚くべきは、人々の主要な物語の概観である。常に、今やダーウィンとその学派が提示する、あるいは提示しようとするものとは正反対のものを心に思い浮かべるのだ:より強い者、より良く適応した者への選択、種の進歩といったもの。まったく逆の現象が手に取るようにわかる:幸運な事例の排除、より慎重な高次タイプの無用さ、中間のタイプにおいてさえ中庸の必然的支配。仮に人間が生物の中で例外である理由を示していないとしても、私はダーウィン学派があらゆる点で自らを欺いているという偏見に傾いている。その力への意志、すなわちあらゆる変化の究極的根拠と本質を再び認めるこの意志こそが、例外と幸運を支持する選択がなぜ持続しなかったかを正当化する手段を与えてくれる。最強で最も幸福な者も、弱者の臆病さを持ち、多数派が敵対するならば、組織化された群集本能の前では弱者となるのだ。私の世界全体像(Gesammtaspekt)は、今日人類の上に懸けられている頂点的価値において、幸運な事例や選択型が優勢ではなかったことを示す。むしろ衰退型が優勢だったのだ―おそらくこの望まれない悲劇ほど、この世で興味深いものはないだろう... 奇妙に聞こえるかもしれないが:常に強者を弱者から、幸運な者を不運な者から、健全な者を退廃と遺伝的負担から守らねばならない。道徳の現実を定式化しようとするなら、それが道徳である:中間層は例外よりも価値があり、中間層の上に退廃構造が君臨し、無への意志が生存意志に優越する;これが総合目標(Gesammtziel)である。

    さて、キリスト教徒、仏教徒、ショーペンハウアーはこう述べた:存在することよりも存在しないほうがましだ(besser nicht sein als sein)。道徳の現実の定式化に向けて、私は自らを反逆させる。ゆえに私はキリスト教を死を賭した憎悪をもって見る。なぜならそれは崇高な言葉と身振りを生み出し、恐るべき現実に美徳の法則という覆いをかけ、神性を与えるために…… 私は全ての哲学者を見、科学が逆転した生存競争の現実の前にひざまずくのを見る―ダーウィンが教えたように―すなわち、全ての頂点、左派は変容し、生命を妥協し、生命の価値を。―

    ダーウィン学派の誤りが私の問題となった:どうして我々はここで明らかに誤りを見過ごせるのか?... 属の進歩を構成するものは、世界の主張として不合理である:現時点では、それらはある水準を表している――すなわち高等生物が低等生物から進化したという事実は、決してまだ証明されていない――私は低等生物こそが、知恵と狡猾さにおいて優位に立つ存在であると見る――偶然の変化が如何にして優位性をもたらすのか、私には理解できない 少なくともこれほど長い期間にわたっては。これを説明するための新たな動機;偶然の変異がこれほど強くなる理由;私はあなたが頻繁に語る「自然の残酷さ」を別の点に見出す:それは自らの子供たちの幸福に対して残酷だ。彼らは謙虚な者たちを愛し、守り、保存する,それが何であれ

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■45227 / inTopicNo.12)  Re[15]:『ノートブック』該当部分 1.
□投稿者/ flora -(2026/01/25(Sun) 01:57:25)
    パニチェさん、こんにちは。

    >“ニーチェ 22の覚書”でググってみたところ「ニーチェの『最後の22のノートブック』1886年から1889年にかけてのニーチェの最後のノート(遺稿)をまとめたもの」というのが出てきました。

    はい、そうだと思います。その『最後の22のノートブック』は翻訳されているのかどうか、私には分かりませんので、ダーウィン/ダーウィニズムに関係する箇所を英語から日本語に訳して見ました。もちろん哲学のことはまったく分かりませんし、ましてニーチェのことは・・ ですので訳に関しては誤訳も有ると思いますが、ご参考になれば。

    訳はこのリンクから
    h
    ttps://archive.org/details/fn-notebooks-1886-1889/page/9/mode/1up?q=darwin

    頁番号、エントリー番号、書かれた時期の順です。

    1)126―127頁7 [25] 1886年末―1887年春 

    反ダーウィニズム:器官の使用は、その起源を説明するものではない。むしろ、その逆である。ある特性が形成される最も長い期間において、それは個体を保存することはなく、個体にとって何の役にも立たない。ましてや、外部環境や敵との闘争においてはなおさらである。結局のところ、「役に立つ」とは一体何なのか?「何に関して役に立つのか」を問わなければならない。

    例えば、個体の寿命に有益なものが、その強さや輝きに不利に働くこともあり得る。個体が受け取るものは、同時にその成長を維持し、阻害することもある。一方、欠乏や退化は、他の器官への刺激となる限りにおいて、最大の利益となることもある。同様に、緊急事態は、個体を自らを支え、自らを消耗させないレベルまで引き下げる限りにおいて、生存の条件となり得る。個体そのものが部分同士の闘争(食物・空間などへの)であること:その発達は、個々の部分の勝利・優位性、あるいは衰退・他部分への「器官化」と結びついている - ダーウィンは「外的状況」の影響をナンセンスなほど過大評価している; 生命過程の本質的部分は、まさに「外部環境」を搾取し利用する、内側から湧き上がる途方もない形成力・形態創造力にある… - 内側から形成される新たな形態は目的を持って形成されるのではなく、部分同士の闘争において、部分的な利用関係なしには新たな形態は長く存続せず、利用に応じて次第に完璧に発達していく - もし永続的に有用性が証明されたものだけが存続するなら、そもそも有害な破壊的・溶解的な能力、―それは無意味な偶然性な・・・・

    2)132頁 7 [44]、1886年末 -1887年春
    ダーウィニズム生物学における「有用」とは、すなわち他者との闘いにおいて有益であることを証明する意味である。しかし私にとって、闘いにおける有用性とは別に、より強くなる感覚、実際の進歩そのものから生まれる感覚こそが、闘争意志を生み出す唯一の源泉である。







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