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Re[66]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/01(Sun) 10:33:31)
| おはようございま〜す。沈黙のゴギトからその言表のコギトね。
No43411、もうちょっとわたしに思われたの、 「判断」っていうの、「知覚判断」と「経験判断」で、わたし、「知覚」と「経験」は「経験的」、そして「判断=認識=意識=〈コギト〉」(w)ってして見てるなかで、これぜ〜んぶ「経験的なもの」ってして見て、「超越論的」と区別するために、(w)全部に「経験的」をつけといた方が分かりやすくなるかも、って。たとえば〈経験的コギト〉って。 あと、 「私は考える」〈コギト〉なんだけど、カントの場合「神に対する人間の」っていうのはずせないとわたし見てるから、「私は考える」の「私」を「人間」に置き換えて見てもいいのかも?(神に対しての)「人間は考える」みたいに。
な〜んかごちゃごちゃ考えてるんだけど、カントのがごちゃごちゃしてるからしょうがない。 で、ひとまず、カントの、 No43411のようにわたし見たなかで、
No41672の(本Ko)の第七章(p156〜)のところ、御子柴さんのカントの訳のところを書き写して見てくことにするよ。
〈悟性を可能にする、三つの主題的認識源泉〉のところから、 (K1)――――――――(p157〜p158) (1)もし個々別々の表象が他の表象に対してまったく疎遠であり、いわば独立していて、他の表象から切り離されているとしたら、なにか認識のようなものが生じることはけっしてないであろう。認識とは、比較され結合された諸表象の全体〔だから〕である。 (2)したがって、私が、感官は直観の中で多様性を含んでいるという理由で、感官に見渡し作用があるとするなら、この見渡し作用にはつねに総合が対応することになり、受容性は自発性と結合されることによってだけ認識を可能にできることになる。 (3)この自発性が、一切の認識において必然的に現れる三様の総合の根拠である。三様の総合とは、直観においてこころの変容としての諸表象を覚知すること、構想において諸表象を再生すること、概念において諸表象を再認すること、である。 (4)さて、以上の三つの総合は三つの主観的認識源泉へと導くものである。それらの認識源泉が、悟性さえも可能にし、そして悟性を介して一切の経験を悟性の経験的な産物として可能にするのである。 ――――――――(A97f.)
番号ふっといた。 な〜んか書いてて長くなっちゃいそうだから、少しづつ分けてね。
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