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Re[91]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/11(Fri) 18:56:36)
| No42034のつづき
『われわれの考えうるものはすべて「物の意味」であり、そしてこの意味を私に開示する作用がまさに知覚と呼ばれるものであるから、私は知覚において〈物そのもの〉に到達しているわけである。』(M-p) っていうところ、 ここらへんはメルポンのとカントのが違うところみたい。 (F-D)の訳注にも、 〔Transzendenz ireellen Beschlossenseins:直訳すると、「非実質的に含まれているという超越性」となる。『イデーンT』でも、「物が意識に対してもつ超越性とか「自体存在」とかいう言い方に騙されてはならない。物的なものの超越性の本当の概念は、知覚の本質内実から以外には汲まれることができない。・・・自体的に存在する対象とは、決して、意識にまったく関わらないようなものではない」(第47節)と述べられ、また、「物の超越性は、直観の進行における無際限性に表現されている」(第149節)のであって、知られざる「物自体」の超絶性なのではない。〕 ってある。
カントのを見て見ると、 (K)―――――――――――――――――――― (本Ko)から、 〔どのような仕方でどのような手段を用いて認識が諸対象に関係するとしても、認識がそれを通じて諸対象が直接的に関係し、そしてあらゆる思考がそれを手段としようとするものは、直観である。しかし、直観は、私たちに対象が与えられるというこのことは、これまた、少なくとも私たち人間にとっては、対象がこころをなんらかの仕方で触発することによってのみ可能である。私たちが諸対象によって触発される仕方によって諸表象が与えられるのであり、ひとり感性だけが私たちに直観を提供するのである。〕(A19/B33)(p88-76) (資料E)から、 〔カントは『純粋理性批判』・先験的感性論の冒頭で、「たとえどのような仕方で、またどのような手段によって、認識が対象と関係するにせよ、認識がそれによって対象と直接連関し、すべての思惟がそれを手段として目指すものは直観である。しかし、この直観は我々に対象に与えられる限りにおいて生じるに過ぎない。だが、このことはこれもまた{少なくともわれわれ人間には}対象が心をある仕方で触発することによってのみ可能である」(A19,B33)と語る。〕(p99) ――――――――――――――――――――――
私たち人間の〈「対象」とその認識〉において、 私に触発されてる私の外にある「物(対象)」は、私の意識の内で「それ」が認識される際、思考が手段としているのは〈感覚-現象-直観〉である。っていうことをカントは“認めてる”わけよね。
私の外にある「物(対象)」(x)は、私の内で構成されたものとなってる〈物(対象)〉なわけだから、「(x)物(対象)それ自体」じゃない、としても、私たち人間は“そのようにして”「物(対象)」にかかわってるわけで、じゃそれはどのようにして?に対するメルポンの見方が(M-p)なんだとわたし思ってる。 メルポンのは、神的なものにかかわる問いじゃなくて、〈私たち人間の〉にかかわる問い、って見れるかな。
わたし〈感覚-現象-直観〉を〈感覚-知覚(作用・されたもの)〉ってして見てる。 だから、(K)からは、〈思考は感覚-知覚を手段としている〉って見るわけなんだけど、私たち人間の認識において、思考に先立つものとして〈感覚-知覚〉は原初的なもの。それを探究しているのがメルポンのだとわたし思ってる。
もうちょっとつづける。
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