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■37366 / inTopicNo.13)  Re[38]: つれづれなるままに 14
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/26(Sun) 10:00:52)
    No37365 のついでに、
    こんなのも描いて見たよ。添付します。
    大きくなったときの、私Xと私Yがお喋りしてる感じのね。

    私Xに固有の(意識のなかの)自と(身)体があって、私Yに固有の(意識のなかの)自と(身)体がある、っていうイメージ。
    私Xと私Yのそれぞれに固有の自と体がある、っていうふうに見る、っていうこと。
    あと、
    No36861で見たように、
    〈自〉を欲望や情の場とも見てる。
    だから、〈私Xの自〉は〈私Xの欲望・情の場〉、〈私Yの自〉は〈私Yの欲望・情の場〉っていうこと。

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■37365 / inTopicNo.14)  Re[37]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/26(Sun) 09:57:16)
    ここからは、わたし勝手なのになるよ

    わたし、〈意識の原初自然な固有の領域〉に〈自〉って名づけたなんだけど、これ、
    No36717に書いたように、
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、第50、51、52節あたりを読んでるときに想いつたのね。

    ずーっと
    No37109の(1)のところ考えてたんだけど、やっとお喋りできそうになってきたので。

    今回の資料の中には、「自我」「純粋自我」「先-自我」「原-自我」っていう日訳あるんだけど、
    No37236でわたしが感じたように、
    「自我」っていう語に固執しちゃうと、わたしのなかではではちゃんと区別できなくなっちゃうのね。

    「私」にまつわる語、「自我」「自分」「私自身」みたいなの、一字に分けて見たりしてるのね。
    「自我」は「自」と「我」に、「自分」を「自」と「分」に、「私自身」を「私」と「自」と「身」に、みたいに。
    こういうの、日本語で見てるから、外人さんには分け分かんないと思うけどね。

    フッサールのいう「モナド」、
    No37183のような、
    これ、意識の領域として見て、わたし最近、フッサール的モナドみたいなのを〈自〉ともしてる。

    だから、〈自〉っていうの、意識のなかの、〈原初自然な(その人)固有の媒介の場(領域)〉みたいな感じにもなってる。
    こういうのがが存在する、っていうことでね。

    No31867でわたしが想像して見たの、
    身体の成長と同じように意識(精神)も成長するとして見て、意識の、〈自は分化する〉っていうイメージをまた描いて見たので添付しま〜す。
    乳幼の頃の〈未分化の自〉のうちには、大きくなって区別されるようなもの(たとえば、感-知覚/思考/記憶)に成長する“芽”がすでに〈未分化の自〉のうちにはある、っていうの思いついたから。
    〈未分化の自〉の原初的なのを〈自〉ってして、大人になってもこの〈自〉は存在しつづけてるのね。

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■37343 / inTopicNo.15)  Re[36]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/22(Wed) 19:26:41)
    ごめん、

    政治家さんとマスを同レベルで見ちゃったら失礼かもね?

    マスは政治家さんの糞、このの方が正しかったかも?って。
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■37342 / inTopicNo.16)  Re[35]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/22(Wed) 18:22:58)
    哲学者って、意外と思考が幼稚園児なみなのかも?って。

    ん〜ん、科学者の方はどうかと言えば〜、思考がプアーになっちゃのかな?って。

    政治家さんやマスはどかっていうと〜。 ん〜ん、そうね、家畜かな?


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■37314 / inTopicNo.17)  Re[34]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/17(Fri) 18:55:45)
    もうちょっと、
    No37289 に関連して、
    No37109の(3)のなかに、
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (a)他我構成論では、〈省察する自我〉は固有領域への還元を行うとされた。だが、超越論的経験の領野を「私に固有の」領域へと還元する操作は、〈省察する自我〉の持つ「私」という意味を前提にしなければ不可能なのである。

    (b)以上のようにフッサールによる他者経験の志向的構成能作の解明は、「私」という意味について不問に付されたまま分析が進められている。その結果、他我構成論においては、超越論的自我や固有領域への還元において自己統覚された精神物理的自我(あるいはモナド)といった自我概念が、「私」あるいは「自我」という表現を介して〈省察する自我〉に静態的分析の構造上結びついており、それらが「私の」超越論的自我や「私の」モナドであることについては分析の俎上に上ることがない。

    (c)そのため、フッサールの分析の各段階における自我概念は、「私」という意味をめぐって交錯し重なり合い、概念的動揺をきたすこととなるのである。こうして我々は、他者との関係性を既にそのうちに孕むこの「私」という意味が、他我構成論のどの段階において問題とされているのか不明瞭なまま他者経験の分析を行うこととなり、絶えず混乱した状況におかれることとなる。

    (d)我々がその混乱した状況にはっきりとした答えを与えられるのは、「他者(Andere)は、現象学的には私自身の変容態として現れる(私自身は、今や必然的に生じ対照をなす対化によって、この私という性格を自らの側で獲得する)」(I,144)というフッサールの対化に関する記述に出会うことによってである。ここでわれわれは、初めて明確に「私の」という性格が、対化によって獲得されることを知ることができる。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ってあった。
    流れ的に切りのいいところを書き出したんだけど、
    (d)にあるような、小林さんにはっきりとした答えを与えた、フッサールが言ってる(I,144)のところ、
    (3-d)〔他者(Andere)は、現象学的には私自身の変容態として現れる(私自身は、今や必然的に生じ対照をなす対化によって、この私という性格を自らの側で獲得する)〕
    なんだけど、
    No37289 の本文(D)の
    (52-D)『他者は、現象学的には自己の「変様」として現れるのだ(私の自己が「私の」というこの性格を受け取るのは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。』
    っていうところとよく似てる。たぶん同じところなんだと思う。
    訳し方として「変様」が「変容」、「自己」が「私自身」だったりしてるけど。

    「変様」については、
    No36130に出てきる。

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■37313 / inTopicNo.18)  Re[33]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/17(Fri) 18:45:14)
    今回のわたしの物語りのメインテーマに入る前に、ちょっとお喋り。

    No37310のつづき

    No37289の訳注(38)に、
    「我は汝と対比のなかで初めて構成される」(『間主観性の現象学』第一巻)
    ってあるけど、
    No37237のなかにも
    「我と汝の合致」
    ってあった。

    それにしても、わたしの物語り、おもしろくないかな〜?
    ちょっと気になっちゃりして。

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■37310 / inTopicNo.19)  Re[32]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/16(Thu) 18:50:24)
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の中の第50,51,52節からのわたしの抜粋が書けたんだけど、いまのわたしが想定しているのを先に書いとくと、
    No37289の訳注(38)にある、

    〔「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくる〕

    っていう見方ね。

    ってすると〜、
    何と何が対(つい)になるのかしら?
    これが今回のわたしの物語りのテーマになるのかな?

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■37298 / inTopicNo.20)  Re[31]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/14(Tue) 19:44:26)
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■37289 / inTopicNo.21)  Re[30]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/12(Sun) 11:00:25)
    No37287のつづき、

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の
    第52節 共現前は、独自の確認する様式をもった経験である(p204〜)
    のなかからわたしがの抜粋したところは、

    本文(D)
    ***************
    ・・・・・「異なるもの(フレムト)〔他者〕」は、自分固有のものの類似物(アナロゴン)としてのみ考えることができる。それは必然的に、その意味の構成ゆえに、私の最初に客観化された自我と私の原初的世界との「志向的変様(37)」として現れる。つまり、他者は、現象学的には自己の「変様」として現れるのだ(私の自己が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。したがって、類比による変様において、この自我の具体性はまずその原初的世界として、次に十分に具体的な我(エゴ)として属するものすべてが共現前する、ということは明らかである。言い換えれば、共現前によって、私のモナドにおいて別のモナドが構成されるのである。・・・・(p206)
    ***************

    訳注
    ・・・・・・・・・・・・・
    (37)
    intentionale Modifikation:「変様」とは、フッサールが『論理学研究』以来、よく使ってきた用語で、本書でもこれまで目立たない仕方ですでに使われてきている。しかし、ここでは特に、「現在させる働き」と「準現在させる働き」の間に、また、「現前」と「共現前」の間にも、後者は前者の「志向的変様」という関係がある、それゆえ、「自分固有のもの」と「異なるもの」の間にも、同様な「志向的変様」の関係がある、という点が強調されている。しかし、このような主張は、その後、フィンクによって、「現様態の優位」を主張する「思弁的思考(形而上学)」として批判されることになった。

    (38)
    「他者は、現象学的には私の自己の「変様」だとすると「私」というのが先にあるのでなければならないだろう。ところが、この括弧内では、「対になること」によって初めて「私の」という性格を受け取るのだとすると、それに先立って「私の」という性格がるわけではないことになる。「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。「我は汝と対比のなかで初めて構成される」(『間主観性の現象学』第一巻)という言い方も、この脈略で理解されよう。
    ・・・・・・・・・・・・・

    これでわたしが抜粋したところはひとまずこれでおしまい〜、だけど、

    つづくよ。

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■37287 / inTopicNo.22)  Re[29]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/12(Sun) 09:17:04)
    No37286のつづきね

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、
    第51節 他者経験には、連合によって構成するものとして、「対になる」という契機が含まれている(p201〜)
    から、わたしが抜粋したところは、

    本文(B)
    ***************
    私の原初的な領分の内部で、一つの物体が私固有の身体(ライプ)=物体(ケルパー)(34)に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に身体として捉えられるのは、類比によってであった。
    ここでの類比による把握に特有なことを特徴づけようとする時、まず最初に出会うのは、ここでは根源的に創設する原本が常に生き生きと現在しており、それゆえ原創設そのものが常に生き生きと動いたままだ、という特徴である。そして第二に出会うのは、この類比によって共現前するものは決して現実には至ることはできず、それゆえ、本来的な知覚に至ることはできないという、すでにその必然性において知られるようになった特性である。第一の特性と密接に関連することだが、我(エゴ)と他我(アルター・エゴ)は常にそして必然的に、根源的な「対(ペア)になる(35)」という仕方で与えられる。・・・・・(p201)
    ***************

    訳注(アキュートアクセントは省略するよ)
    ・・・・・・・・・・・・・
    (34)Leib-Korper:注(17)に述べた、「身体」と「物体」の区別を踏まえながらも、その両面をもつと捉えられているものをこう呼んでいる。

    (35)Paarung:「対(Paar)にすること/なること」を指す。後にのべられるように、フッサールはこれを「受動的綜合の一つの根源的形式」として考えており、その意味で、「対にする」より「対になる」としたほうが適切と思われる。また、このあと、「対になること」は「連合と呼ばれる受動的綜合の一つの根源的形式」とされるが、「連合は受動的発生の原理である」(本書第39節)とも言われており、フッサール自身ここで論じているのは「静態的な分析」(本書第48節)であると断りながらも、発生的現象学に属する問題圏に踏み込んでしまっている。
    ・・・・・・・・・・・・・

    本文(C)
    ***************
    ・・・・・いま私の原初的な領分のうちに一つの物体が際立って現れ、それが私の身体と似ている、すなわち、それが私の身体と現象的に対になるに違いないという状態である場合、その物体は意味がおしかぶせられることによって、直ちに私の身体から身体という意味を受け取るにちがいない。・・・・・(p203)
    ***************

    できるだけ少しだけ抜粋することにしてる。

    つづく

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■37286 / inTopicNo.23)  Re[28]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/12(Sun) 09:09:31)
    No37282のつづき、
    今日は、まず、抜粋部分を書いてくことにするよ。

    第50節 他者経験は、「共現前」(類比による統覚)として、間接的な志向性をもつ(p195〜)
    から、わたし抜粋したところは
    No15221
    で書いたから、今回は書かないけど、第50節での本文の抜粋部分を(A)ってしとく。

    つづく


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■37282 / inTopicNo.24)  Re[27]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/05/11(Sat) 16:04:46)
    No37281で見たように、
    わたしの語の使い分けや、フッサールの言う「他者経験」と「他我問題」や「独我論」とをごちゃまぜにしないように、気をつけたところ。
    で、
    「他者経験」について、なんだけど、
    これについては、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、第50節、第51節、第52節のところを読み返していた。

    次からは、ここんところからわたしが抜粋したところをまず書いて、そのあと、それらのわたしの見方を書いてくことにするね。

    ちなみに、ちょっと書いとくと、
    第五省察 超越論的な存在の場をモナドの間主観性としてあらわにする(p161〜)
    は、
    第42節 独我論という非難に対抗して、他者経験の問題を呈示する
    から始まってて、そのなかに、
    『さて、新しい省察を始めるにあたって、一見すると重大であるように見える一つの非難を手がかりにすることにしよう。・・・・
    省察する自我である私が、現象学的な判断停止(エポケー)によって、絶対的で超越論的な我(エゴ)へと還元される時、わたしは独我(ソルス・イプセ)になってしまうのではないだろうか。現象学という標題のもとで一貫した自己解明を行っている限り、私は独我(ソルス・イプセ)に留まるのではないだろうか。それゆえ、客観的な存在の問題を解決したつもりになって、もう哲学として登場しようとしている現象学は、超越論的な独我論という烙印を押されるべきではないだろうか。〔こう非難されるわけである。〕・・・』
    ってある。(〔 〕内は訳者による補足説明ね)

    フッサールのいう「超越論的」っていうの、
    No37157で見たように、わたしのばあい「純粋」ってして見てるから、
    〈現象学は、純粋な独我論という非難があった〉――のかな?って。 
    わたしここらへんよく知らないけど。

    つづく

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