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■36954 / inTopicNo.49)  Re[25]: 『ノコギリのたとえ』
  
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/28(Thu) 10:39:43)
    No36938に返信(pipitさんの記事)
    おはようございます。

    > wiki『鋸喩経』より抜粋引用
    > 『鋸喩経[1](こゆきょう、巴: Kakacupama-sutta, カカチューパマ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第21経。
    > 経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』
    >
    > https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%8B%B8%E5%96%A9%E7%B5%8C
    >
    > wikiに経文の日訳がほんの少しだけ載ってたので引用させていただきます。※記号省略
    >
    > 『比丘たちよ、他人があなたがたに話しかけるときに使用する、言葉の種類が五つある。適した時機に語る、もしくは適さない時機に語る、真実に基づいて語る、もしくは虚実を語る、柔和に語る、もしくは粗暴に語る、有益に語る、もしくは無益に語る、慈しみの心で語る、もしくは怒り(dosantara)の心で語る。

    「虚実を語る」はスマナサーラ長老の本でも「虚実」と書いてあるのですが、何故なのかな。完全な嘘より虚実ないまぜの方が、信じてしまう人が出やすいので有害とか? 「虚実」には「うそとまこと」以外の意味(使用法)もあるのでしょうか。真の実の反対が虚の実?
    一応、真実に基づいて語るの逆で「虚偽に基づいて語る」の意味とすると、
    5×2 の中で、自分が腹を立てやすいのが、それです。
    「粗暴に語る(罵倒)」もイヤではあるものの、「虚偽に基づいて罵倒」が最悪。

    そういうことをされたら怒るのが当たり前だろう、という思い込みに対して
    それでも同じだ、怒ってはいけないんだ、という教えは支えになる。

    嘘に基づいて罵倒される→理不尽に苦しい目に遭う→怒って当たり前

    それでも怒るのは自分が未熟だからであって、それが原因なのであって、理不尽ではない。
    自分の怒りを肯定しない、正当化しない という支え

    あくまで自分なりの受け取りなので、ご寛容にお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■36953 / inTopicNo.50)  Re[24]: 『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/28(Thu) 10:11:36)
    No36936に返信(knowingitselfさんの記事)
    knowingitselfさん、おはようございます。
    > pipitさん 返信ありがとうございます
    >
    > 悪をなされた場合についてのお経ですが、
    >
    > スマナサーラ長老による、「怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む」という著書がありましたね。所持していますが、さすがという内容です。

    一気に読んでしまいました。素晴らしかったです。ご紹介ありがとうございました。
    これへの返信はお気遣いなく。
引用返信/返信 削除キー/
■36948 / inTopicNo.51)  「ノコギリの喩え」と十善戒
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/28(Thu) 08:10:03)
    おはようございます、pipitさん。横レス失礼します。
    以下はスルーで結構です。^^

    No36945に返信(pipitさんの記事)

    > ことばを何か言われても、ノコギリの喩えを覚えているように、ということかなーとpipitは上の引用文を捉えてるんだけど、
    > 出家した弟子なら、釈尊にこう説かれたことで、いろんな場面で心持ちが変わってくるかもしれないなぁと想像してるよ。
    > どうなのかなぁ…

    以前のYahoo!掲示板でasahi803803さんという女性の密教修行者がいました。
    凄く謙虚でかつ人格者でもあり尊敬できる方でした。

    その方は他者(少しアラシっぽい人)に自分の真意が伝えられずに度々自省していました。それに対して僭越ながら私は「本当に他者に何かを伝えたいと思うなら時には明王のような厳しさをもって接することも必要ではないか。それができないなら文字だけの掲示板で他者に理解を求めることは諦めることも必要だと思います」というアドバイスをしたところ「私には、明王ほどの悟りはなく、よって、そのような境地で『掲示板に向かうことができない』ということです。一度でも『汚い言葉(文字として)』を書き込んでしまった時から、すべてを無くしてしまうような恐怖感が拭えないのです。勿論、私の未熟さです。明王の境地にない私が、もし一度でも『明王のような』、明王の真似事をして投稿をしたならば、きっと、間違った方向へ進んでしまうのではないか、という恐怖心があるということです。これは、転法祖師のご指摘通り、密教修行者として『十善戒』を破ることへの恐怖でもあり、私の未熟さです。」と返信されたことが思い出されました。

    その方は2008年2月の行中に倒れ彼岸に旅立たれました。
    asahi803803さんを偲んで。。。。
引用返信/返信 削除キー/
■36945 / inTopicNo.52)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/27(Wed) 19:17:05)
    2024/03/27(Wed) 20:07:15 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは!

    No36943
    >
    > >経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』<
    >
    > この教え、手足を切り落とされた人が言ってるんだったら、すごい人だな、ってわたし思うけど。<

    うん、確かに、とも思うんだけど、

    pipitの感想として、言葉の影響まで考慮されての説法なのかなとも思えるんだよね。

    石飛先生訳の最後らへんを引用させていただくと、m(_ _)m

    『。比丘たちよ、このように学ばねばならない。
    比丘たちよ、おまえたちは鋸の喩えの教えをつねに心にとどめていなさい。比丘たちよ、おまえたちは、細かなことでも大ざっぱなことでも、承認できないようなことばの使い方を見るだろうか」
    「いいえ、尊師よ」
    「それでは、ここで、比丘たちよ、この鋸の喩えをつねに心にとどめておきなさい。それは、長夜にわたり、おまえたちの利益と安楽をもたらすだろう」と。』

    https://manikana.net/canon/kakaca.html

    ことばを何か言われても、ノコギリの喩えを覚えているように、ということかなーとpipitは上の引用文を捉えてるんだけど、
    出家した弟子なら、釈尊にこう説かれたことで、いろんな場面で心持ちが変わってくるかもしれないなぁと想像してるよ。

    どうなのかなぁ…
引用返信/返信 削除キー/
■36943 / inTopicNo.53)  Re[25]: 『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/27(Wed) 18:55:51)

    >経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』<

    この教え、手足を切り落とされた人が言ってるんだったら、すごい人だな、ってわたし思うけど。
引用返信/返信 削除キー/
■36938 / inTopicNo.54)  Re[24]: 『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ pipit -(2024/03/26(Tue) 22:05:15)
    2024/03/26(Tue) 22:11:14 編集(投稿者)

    knowingitselfさん、こんばんは!

    No36936
    > 悪をなされた場合についてのお経ですが、
    >
    > スマナサーラ長老による、「怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む」という著書がありましたね。所持していますが、さすがという内容です。<

    私も所持しています(^ ^)v

    ここで『ノコギリのたとえ』の説明を....

    wiki『鋸喩経』より抜粋引用
    『鋸喩経[1](こゆきょう、巴: Kakacupama-sutta, カカチューパマ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第21経。
    経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%8B%B8%E5%96%A9%E7%B5%8C

    wikiに経文の日訳がほんの少しだけ載ってたので引用させていただきます。※記号省略

    『比丘たちよ、他人があなたがたに話しかけるときに使用する、言葉の種類が五つある。適した時機に語る、もしくは適さない時機に語る、真実に基づいて語る、もしくは虚実を語る、柔和に語る、もしくは粗暴に語る、有益に語る、もしくは無益に語る、慈しみの心で語る、もしくは怒り(dosantara)の心で語る。

    そのために比丘たちよ、このように学ぶべきである。私たちは、心(citta)が変化しないようにしよう、 私たちは、悪しき言葉を発さないようにしよう。私たちは、情ある者(anukampi)、慈しみ(metta)の心ある者、瞋恚(dosa)なき者として生きよう。私たちは、その人を慈しみの心によって満たそう、またすべての世界に対しても、増大した、増幅した、超越した、無量の、害意なき、慈しみの心で満たして住足して生きよう。まさに比丘たちよ、このように学ぶべきである。』


    石飛道子先生のサイトの『心にしみる原始仏典』のページには、石飛先生が日訳された「鋸喩経」が全文のっています。(^人^)ありがたいですー

    「鋸喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第21経

    https://manikana.net/canon/kakaca.html


    knowingitselfさん、書き込みありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■36936 / inTopicNo.55)  『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/26(Tue) 18:42:33)
    pipitさん 返信ありがとうございます

    悪をなされた場合についてのお経ですが、

    スマナサーラ長老による、「怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む」という著書がありましたね。所持していますが、さすがという内容です。
引用返信/返信 削除キー/
■36928 / inTopicNo.56)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/03/26(Tue) 00:08:54)
    pipitさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No36922に返信(pipitさんの記事)

    > なるほどー
    > なんにしろ『見解』にしてはならない、ということかなーと思いました。

    はい。そういう事ですね。論の中での見解は、何かを主張するという事になりそうです。何かを主張するという事は、何かに対する固執があります。何かの固執があるという事は、その近くには貪りがあります。貪りがあるという事は苦からの解放はありえません。ですので、仏陀たちは、見解としての主張の仕合いとしての議論をしませんとなるのですね。勿論、私の理解ではですが。

    > あと、アーナパーナサティスッタも知らないながらも興味はあるんですよねー。

    出入息念の事でしょうか。もしもpipitさんが原始仏典に拘られるのであれば、中部経典62経「大ラーフラ教誡経」が参考になると思いますよ。

    > どうなるかまだわかりませんが、今のところダンマパダを読んでいきますね。

    はい。今は、ダンマパダをおすすめください。ご返信は不要です。
引用返信/返信 削除キー/
■36923 / inTopicNo.57)  knowingitselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 16:40:13)
    No36920-36921
    knowingitselfさん、返信ありがとうございます!

    > 私の理解では「怒らないこと」が何をおいても優先されるのだと捉えています。
    > スマナサーラ長老の「怒らないこと2」にかなりの影響を受けています。これは素晴らしい書です。
    > 同書は私にとっては仏教開眼の一つといっていいくらい。とくに、第二部第二章の「怒りの種類」。
    > ドーサという基本の怒りとその変形である9種、全部で10種類の怒りが人間の苦しみの原因になるという。
    >
    > 現代日本の文脈における「怒り」ではなかなか本質をつかめないと感じていますが。
    > やはり「ドーサ」というのがピンとくる。<

    そうだったんですね!
    私も(?)仏教の物の見方はとてもおもしろく、役に立っているように感じています。


    No36921
    > ダンマパダ125は自ら悪をしないようにというお経であって、他人から悪をなされた場合の対応法を語っているのではないと読めます。
    >
    > それでは、まさしく他人から悪をなされたときは?
    >
    > この点について興味深いのは、たとえば、新約聖書です。
    >
    > 「右の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい」マタイ福音書5・39
    >
    > これはキリスト教だけの教えというより、霊的な普遍の真理を表現していると思う。釈迦の掴んだ真理と矛盾しているはずはないと思います。<

    悪をなされた時は?でpipitが思い出すのは、サーリプッタ尊者のお話です。

    『マンガ原始仏典・ブッダの教え』より

    https://buddha.pink/setuwa/96/

    スマナサーラ長老のサーリプッタ尊者についての法話

    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou242/

    knowingitselfさんは本当に博識ですね!
    書き込みありがとうございます(^○^)♪
引用返信/返信 削除キー/
■36922 / inTopicNo.58)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 16:14:09)
    No36919
    兄上さま、返信ありがとうございます(^ ^)

    >>兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!<<

    > はい。といいましても、細かいことになるのですが、それを理論的なことと捉え(理解し)てしまわれない方が良いと思います。理論と捉え(理解し)てしまうと、常見や断見に陥りやすいからですね。ですので、中部や長部には、その実践とその論理(道理)が説かれてるようですよ。<

    なるほどー
    なんにしろ『見解』にしてはならない、ということかなーと思いました。

    > pipitさんが怒っている姿が、全く想像できません(笑)
    > 過去、仏教を学ぶ以前のお話ですが、仕事先等で怒っているお相手のお話を聞いていると、論理破綻しているのが一瞬でわかったりしたのですね。あるときは堂々と、あるときは恐る恐る論理破綻の箇所を尋ねてみたことがありますが、、どちらにしても火に油がほとんどでしたので、現在では、その個所が分かったとしても、ほぼほぼ尋ねずにスルーしていますかね(笑)<

    小さな会社なので、働く人も家族的になって、私もその上司に「お父さん、」などと間違えて言ってしまいそうになるくらいなので、結局は甘えてるんだと思います
    (ーー;)
    やさしい人にはみんな甘えてわがまま言ったり理不尽な八つ当たりしたりなりがちなように思います..
    反省です...

    > はい。大念処経も押さえておいた方が良い経典の中の一つですね。<

    すごく網羅的に記述されてますよね。
    あと、アーナパーナサティスッタも知らないながらも興味はあるんですよねー。

    ↓検索してでてきたブログ

    https://search.yahoo.co.jp/amp/s/clover.fcg.world/2016/10/10/7053/%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQGsAEggAID

    どうなるかまだわかりませんが、今のところダンマパダを読んでいきますね。
    ありがとうございます♪
引用返信/返信 削除キー/
■36921 / inTopicNo.59)  Re[22]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/25(Mon) 15:16:26)
    ダンマパダ125は自ら悪をしないようにというお経であって、他人から悪をなされた場合の対応法を語っているのではないと読めます。

    それでは、まさしく他人から悪をなされたときは?

    この点について興味深いのは、たとえば、新約聖書です。

    「右の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい」マタイ福音書5・39

    これはキリスト教だけの教えというより、霊的な普遍の真理を表現していると思う。釈迦の掴んだ真理と矛盾しているはずはないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■36920 / inTopicNo.60)  Re[21]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/25(Mon) 13:45:17)
    pipitさん 返信ありがとうございます

    >やはり実践者の心の清浄行が焦点になってるのかなぁという感想です。

    >ダンマパダ125の解説を二つ見てみました。

    >テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老
    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou050/

    >ココロとカラダのセルフケアさん

    https://north-market.com/care/dhammapada-contents/9-evil/

    >どちらの解説も、『実践者が怒らない』ことをメインに説かれています。
     
    そうだと思います。


    私の理解では「怒らないこと」が何をおいても優先されるのだと捉えています。
    スマナサーラ長老の「怒らないこと2」にかなりの影響を受けています。これは素晴らしい書です。
    同書は私にとっては仏教開眼の一つといっていいくらい。とくに、第二部第二章の「怒りの種類」。
    ドーサという基本の怒りとその変形である9種、全部で10種類の怒りが人間の苦しみの原因になるという。

    現代日本の文脈における「怒り」ではなかなか本質をつかめないと感じていますが。
    やはり「ドーサ」というのがピンとくる。

引用返信/返信 削除キー/

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