アンチクリスト
 
 
ギムナジウム最上級生のときに書いた自伝的小文のなかでニーチェは、「私は、植物としては教会墓地の近くに、人間としては牧師館に生まれた」と述べている〔SA 3.108〕。自らをあからさまに「アンチクリスト」と呼んだニーチェが、そもそもは自らの出自を並々ならず自覚していたことは銘記されなければならない。キリスト教に対するニーチェの烈しい批判は、いわば自らの素性に対する厳しい自己批判でもあった。もちろん彼の批判は、単なる感情的批判や反発ではなく、どこまでも彼の着想した思想と歴史観にもとづいたものである。ここではまず、(1)ニーチェの思想全体のなかで、キリスト教の問題はそもそもどのような位置をしめるものであったのか、そして(2)ニーチェがキリスト教そのものを、どのような宗教として性格づけているのか、さらに(3)キリスト教とその教会がヨーロッパの歴史において果たした役割を、ニーチェはいかに解釈し、またいかにして批判しているのか、の3点に分けて述べる。

1.位置づけ

『悲劇の誕生』は、ギリシア悲劇を中心に広く芸術の問題を論じたものであるが、この書でニーチェは「ディオニュソス的なもの」という概念を提起している。これはアポロ的な仮象の原理の扶(たす)けを借りつつも無限に生成の世界に回帰し、無限な自己拡大を意志する生の根源的原理そのものの呼び名であった。美しい仮象の世界を繰り広げる芸術も、その根底に健全な生命原理たるディオニュソス的なものがあってこそ真の芸術でありうるのであって、それが失われたときにはもはや本来の機能を果たしえない。ギリシア悲劇、ひいてはギリシア文化を衰退させたのは、このディオニュソス的なものに取って代わったソクラテス主義、つまり知と論理の優先であり、さらには現実の生成世界よりも永遠のイデアの世界を「真なる世界」と考えたプラトンの思想であった。現実の生成世界と永遠に「存在」する超越世界という対立が案出されたときにギリシア精神は決定的に変質したのであり、価値の逆転がなされたのである。ニーチェが「ディオニュソス的なもの」を生の根源と考え、かついっさいの人間的営為を「生の光学」から見ようとするかぎり、超越的、彼岸的存在を価値の根本に据える世界観は、すべて生の堕落であり、デカダンスである。『悲劇』においては、キリスト教についての言及はまったくない。しかしやがてニーチェがキリスト教を「大衆向けのプラトン主義」と呼び、「ディオニュソス対キリスト」という公式をもって徹底的にキリスト教を批判し、攻撃してゆく筋道は、すでにここで明確に読み取ることができる。生成してやまない現実世界の彼岸に妄想されたこの「永遠の」「存在世界」は、ひとつの「別の世界」とも、また「背後の世界」とも呼ばれる。この「背後世界」に価値の中心を置く点で、プラトン以来の形而上学とキリスト教は同質であり、ともに力への意志の歪められた形態である。

2.性格づけ

『悦ばしき智恵』第125節に登場する狂人が「神は死んだ」と叫んだとき、この神はまだ端的にキリスト教の神を指したのではなく、むしろ一般的に超越的な存在者、超越的な価値の基準が意味されていた。中期の著作にももちろんキリスト教に対する批判は随所に洩らされているが、それが正面きっての批判となるのは、やはり『ツァラトゥストラ』以後である。『ツァラトゥストラ』には作中いたるところで聖書の言葉がパロディー化され、そこからもすでに反キリスト教的な姿勢は明らかである。「大地の意義に忠実であれ」と説き、いわば強者による弱者の淘汰を掲げる「超人」と「力への意志」の思想から、まずは「同情」つまり「苦悩を共にする」というキリスト教的美徳は、むしろ「喜びを共にする」美徳に転換されるべきことが説かれ、いじましい「隣人愛」が、遠く未来を望む「遠人愛」にとって変わられねばならないとされる。一神教と多神教の対比がなされ、「神々はあっても、ひとりの神など存在しない。それが神というものではないか」〔3-8.2〕といわれるが、これは競技の精神にもとづくギリシア的世界の立場から、価値の絶対化によって柔軟な生命力を失ってしまったキリスト教世界を皮肉ったものである。この書のいくつかの章、マリアの「処女懐胎」を皮肉った箇所や、第4部の「退職」「驢馬祭り」の章などには、涜神的とさえ言える表現が見られる。

『道徳の系譜』は、ニーチェ自身がいう通り「キリスト教についての心理学」、つまりキリスト教の本質とその諸理念徹底的に心理学的に分析したものである。ここでキリスト教は、「聖霊」からではなく、弱者の強者に対する「ルサンチマン(怨恨感情)の精神」から生まれたと言われる。それは高貴な諸価値の支配に対して、弱者が価値の基準を彼岸に置き換えようとした巨大な蜂起であり、そもそもが「反動的」(reaktiv)ものであるとされる。また「良心」と「罪」の意識も、自己をもはや外部に向けて発散することのできなくなった精神が、その矛先を内部に向けた「残虐性の本性」にほかならない。最後に禁欲の理想が、「人は何も欲しないよりはむしろ無を欲する」という、「終末への意志」、歪められた力への意志であることが暴露される。こうしてキリスト教的道徳は、一言で言えば「奴隷の道徳」と特徴づけられ、ニーチェの掲げる支配者と創造者の道徳に対置されるのである。『アンチクリスト』や80年代の遺稿にも見られるこうした激しいキリスト教批判が、その徹底性と表現の過激さはともかく、姿勢としては近世以来キリスト教内部に興った批判運動を受け継ぐものであり、用語のうえでも多くを借用している、としばしば指摘されている。しかしこれらの批判がキリスト教の精神を救おうとしても、もっぱらキリスト教会の堕落を攻撃したものであるのに対して(もっともニーチェでも、3に述べられるように、キリスト教とイエス・キリストは明確に区別されるものであるが)、ニーチェの批判があくまでも現実の生と肉体の立場に立ち、キリスト教の本質そのものを批判している点で、およそ次元を異にしていることは言うまでもない。

3.批判

ニーチェによれば、キリスト教はそれがキリスト教として成立した瞬間に、イエス・キリストの教えとはまったく別のものになる。イエスの愛と受苦の生涯は、教えと実践、真理と生の完全な一体性を示すものであり、神の愛をそのまま体現した愛の生活こそが、神の国の具現でもあった。だが、パウロを中心とした初代の教父たちによって、イエスの教えと生涯はまったく異なった意味づけをされてしまう。純粋な愛と受苦の背後に「罪」とか、「償い」の意味が差し込まれ、愛の完成であった受苦が、救いの約束の出発点となる。パウロによって、イエスの教えがユダヤ化されてしまったのだ、とニーチェは言う。さらにアウグスティヌスによってプラトン主義が持ち込まれ、さらに神秘主義によって十字架が象徴化され、また禁欲の理想が加わった。キリスト教会は、その教線拡大のためにひたすら「神の国」を壮麗に描きあげ、同時に現世の生と肉体の価値をおとしめることに専念してきたのである。もっとも、人間性の理念が復活したルネサンスの時代には、生命と支配欲に満ちあふれたチェーザレ・ボルジアのような人物が、すんでのところで法王の座に着くところであった。もし彼が法王になっていたら、キリスト教はまさにその中心部から、変革されていたであろう。ところが、おりしもマルティン・ルターが現れて、その改革運動によってようやく崩壊しかけていたキリスト教会を若返らせてしまった。ルターのお陰で、あの壮大なルネサンスの運動も台無しになってしまった、とニーチェは考える。せっかくの努力をいつも台無しにするのはドイツ人であり、キリスト教の歴史に関してもそうであった。

キリスト教に対するニーチェの姿勢を、晩年のニーチェは「ディオニュソス対十字架に架けられた者」という公式に要約している。この両者にとって共通のことは、受苦であった。ただ、キリスト教にとって現世の苦悩は浄福の国で癒されるべきものであるのに対して、ディオニュソスにとってはこの苦悩の現世、永遠に生成と消滅を繰り返す生のみが、聖なる世界である。キリスト教の問題がニーチェにとって最後の最後までいかに深刻なものであったかは、自己自身を「十字架に架けられた者に対するディオニュソス」と呼んでいる『この人を見よ』の結びの言葉が、最も端的に示している。


弘文堂「ニーチェ事典」より引用

(※ニーチェ事典の「アンチクリスト」の項目は書籍の紹介となっているので、ここでは「キリスト教」の項目を引用。)



 
―― 以下、PANIETZSCHE ――

祖父は世間から尊敬された神学博士であり、父はルッター派の牧師であった。

敬虔なクリスチャンの家系の長子として生まれたニ−チェ。
4歳の時に父と死別し、まもなく弟も病死する。

女性に囲まれて育ったニーチェは、ほぼ父親を知らない。

ニーチェの言説や論調に威厳ある父親のパターナリズムが垣間見えるのは、ニーチェのファーザーコンプレックスから醸し出されたものかもしれない。

アンチクリストはニーチェが家系もろともファーザーコンプレックスを克服し、自己超克したアイデンティティーであろう。

そしてアンチクリストはユダヤ教を心理学的に解体し、その源泉がルサンチマンであることを達観する。

ルサンチマンを現代風に言えばコンプレックスとほぼ同義だろう。
琴線と逆鱗。突き詰めてみれば意外とコンプレックスの表裏であったりする。

コンプレックスは、その人物の価値観や創造力の源泉ともなる。

ニーチェのファーザーコンプレックス、つまりルサンチマンが起点となり、ユダヤ教成立のルサンチマンを見出したとすれば、ある種のホメオパシーと言えるのではないだろうか。

アンチクリストによる神の死宣言。

毒をもって毒を制す!

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