ルサンチマン
 
 
「人間が復讐(Rache)から解放されること、これが私にとって最高の希望の橋であり、長かった悪天候ののちにかかる虹である」─『ツァラトゥストラ』でニーチェはこのような目標を掲げている。ここで〈復讐〉と呼ばれているものは、自らに加えられた不正に対して「目には目を」の論理をもってなされる〈報復〉ではない。それはむしろ、無力な者たちが「権力を持つ者いっさい」に対して抱く嫉妬から生まれるものである。彼らも「専制支配への情欲」に駆られているのだが、ただ無力であるがゆえに、権力を持つ者たちによって自尊心を傷つけられ、嫉妬に苦しめられる。

そこで、彼らは、平等こそ正義であると説き、権力は不道徳であると告発することによって復讐しようとするとされて、この「平等の説教者たち」は陰険な毒グモ「タランチュラ」に喩えられている〔『ツァラトゥストラ』2-7〕。この無力ゆえの「憎悪」、嫉妬にもとづく「復讐」に対してニーチェが用いたもう一つの名称が、「ルサンチマン」であり、これは系譜学的思考による批判のキーワードとして、後期ニーチェの暴露戦略の重要な要素となった。ニーチェは、自分は「デカダンス」を自ら体験したからこそそれを克服しうると主張したが、ここでもそれと同じように、「ルサンチマンからの自由、ルサンチマンに関する啓蒙」を自分が達成したのは、この現象を自らの病において自らの弱さと力の問題として体験したからであるとしている〔『この人』1.6〕。

「ルサンチマン」という言葉は、ニーチェが愛読したモンテーニュの『エセー』第2巻第27章でも用いられているが、17世紀初め頃にはフランス語からドイツ語に移入され、「(心理的な)傷つきやすさ」のほかに「不満」「憤懣」「憎悪」という意味も持っていた。ニーチェがこの語をはじめて用いたのは、1875年夏に書かれたデューリングの『生の価値』に関するノートのなかの、「正義感はルサンチマンであり、復讐と結びついている。彼岸における公正という観念も復讐感情に由来するものである」という一節においてである。形而上学の本質は、地上における不正に対して「神の裁き」によって補いをつけて、「復讐心を超越的に満足させること」にあるとしているところには、すでに後年のルサンチマン論の萌芽が見られるが〔遺稿1.5.334f.〕、それが本格的に展開されたのは『道徳の系譜』においてであった。

ニーチェはそこで2種類の道徳的価値評価のあり方を区別している。第一は「騎士的・貴族的価値評価」であり、その前提となるのは「頑健な身体性、盛んで豊かな、沸き立つばかりの健康と、それを保つ条件となる戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技、そして強く自由で高揚した行動を自らのうちに含むいっさいのもの」である。この価値判断は、まず自らの強さ・高貴さ・美しさを「よい」(gut)とし、「劣悪」(schlecht)な者に対する差異の意識(「距離のパトス」)をもって、「支配者の道徳」を生み出す。それんび対して、第二の「司祭的価値評価」においては、力による支配や抑圧によって虐げられた者が、強く高貴な者に対する憎悪から、まず彼らを「悪い」(bose)とする判断を捏造し、そのうえでそれとは反対の性質を「善い」(gut)として、「奴隷道徳」または「畜群道徳」が生ずる〔『系譜』1.7;『善悪』260〕。そこではたらくのがルサンチマンであり、その特徴は、能動的(aktiv)な力によって脅かされたがために否と言うこと、すなわち「反動」(Reaktion)によってはたらくことにあるとされる。高貴なものはただちに行動によって反応するので、ルサンチマンは解消され、過剰なまでの造形力によってその害毒を忘却するが、弱者は「本来の反動、すなわち行動による反動が妨げられている、自らを損なわないためには想像上の復讐をもってするしかないような性質の持ち主たちのルサンチマン」を抱く〔『系譜』1.10〕。そして、自己保存の本能から、強者=「悪人」とは反対の「善人」であることを欲して自らの弱さを肯定する。

その結果、支配したり、報復したりできない無力が忍耐や善意として評価され、卑屈さが謙虚の徳に、屈従が神への服従にすりかえられるというのである〔同1.13.14〕。とはいえ、弱者にも支配したいという欲望はあり、彼らは直接的には満足させられない自らの〈力への意志〉を別の形で発揮する。「道徳における奴隷の反乱は、ルサンチマンそのものが創造的になって、価値を生むことから始まる」〔同1.10〕。彼らは「良心の呵責」というものを発明して、それによって強者を束縛しようとするが、自らの支配欲復讐心を自覚しないので、安じて「善人」の「正義」の勝利を祝うことができるというのである。さらにニーチェは、弱者による価値の捏造の起源をローマに支配された古代ユダヤ人に求める。「ユダヤ人、あの司祭的民族は、その敵と圧制者に対して、結局、敵の価値を根本から価値転換することに以外に、すなわち、最も精神的な復讐の行為によること以外に報いを得る術を知らなかった」。そこで彼らは、悲惨な者、哀れな者、無力な者、下賎な者のみが善き者であるとしたというのである〔『系譜』1.7;『善悪』195〕。

ニーチェはルサンチマンの道徳が勢力を得た背景に、弱者たちの「畜群」を「牧者」として守り、彼らのルサンチマンが集団を解体に導かないように配慮する「禁欲主義的司祭」の役割を認めている〔『系譜』2.11以下;『アンチクリスト』22.26.38〕。彼らは民族のルサンチマンを巧妙に利用するが、それは病人の世話をすると称しながら、じつはまずは病気にしてから治療することによって信頼を獲得する医者と同じやり方によっている。つまり、苦悩の原因を求める者たちに対して禁欲主義的司祭は、原因は彼らの「原罪」にあると教えて「良心の呵責」をかきたて、「霊魂の不滅」や「最後の審判」という観念で信徒たちの良心に拷問を加える。こうしてルサンチマンのはたらく方向を内向きにさせたうえで、司祭は親切や励ましによってささやかな喜びを処方したり、「隣人愛」によって病人の〈力への意志〉を刺激してやったりする。というのも善意や奉仕は多少の優越感をもたらすからであるとされる。それによって心弱き者たちの権力感情をある程度満足させるとともに、救いのありかを示しうるのは司祭のみであると信じ込ませて、彼らを牧者に忠実に付き従う畜群へと組織していくというのである。このような司祭的性格の例としてニーチェが挙げるのが、「憎悪の天才」パウロである。彼をはじめとする弟子たちは、イエスの死がルサンチマンを超越していたことを理解せず、イエスを神の子へとまつり上げることで自分たちのルサンチマンを利用して高貴な者に対する反乱を起こしたとされる〔『アンチクリスト』40.42.43〕。こうしてユダヤ的な「価値の転換」を相続したキリスト教は、2000年にわたってヨーロッパを支配し、そのなかから生まれてきた民主主義や社会主義による「平等」の要求とともに、「ヨーロッパ的人間の矮小化と同一化」という「最大の危機」が迫っているとされる〔『系譜』1.8.12〕。それは、「あらゆる高貴な人間の根底にある金髪の野獣」を恐れるあまり、「〈人間〉という猛獣を、飼い慣らされ、文明化された動物、家畜へと飼育すること」によって、退化させてしまう危険があるという〔同1.11〕。

ニーチェのルサンチマン説は、近代の平等理念やキリスト教倫理に対する大胆な批判のためにさまざまな反響を呼んだ。マックス・シェーラーは、のちに『価値の転倒』に収められた論文果「道徳の構造におけるルサンチマン」(1912)で、ルサンチマンによる道徳的価値評価の転倒というニーチェの説を認容して、近代の市民道徳の根底にはたしかにルサンチマンがあり、それがフランス革命以来の社会変動のなかで増幅されたとしている。しかし他方では、キリスト教の倫理はルサンチマンにもとづくものではなく、ニーチェは「隣人愛」を誤解して、近代的な平等思想を古代宗教に読み込んでいるとも批判している。また、マックス・ウェバーは「世界宗教の経済倫理」序論で「ニーチェのすばらしい試論」について語り、「宗教倫理が階級関係によって全面的に制約されているという見解」はルサンチマン説からも導き出せるであろうとしながらも、一つの心理現象を道徳的合理化を規定する唯一の動機とみなすことには反対する。「幸福財」の不平等な分配に回答を与える「苦悩の神義論」においてルサンチマンが作用する可能性は否定できないが、信仰や禁欲主義がつねに社会に抑圧された階層の「復讐」の要求から生まれてくるとはかぎなない。それゆえ、支配者と被支配者の階層関係だけではなく、より個別的な社会的条件も考えなければならないというのである。ルサンチマンを宗教現象の〈説明〉として捉えるウェバーと、ルサンチマンによる抑圧や支配の暴露によって生の新たな解釈を切り開こうとするニーチェの議論はかみ合っていない。最近ではドゥルーズが、能動的にではなく反動的に作用するルサンチマンの特質を軸にしてニーチェの思想を捉えようとしている。

ルサンチマンをめぐるニーチェの系譜学的な考察は、制度的な現実や一見だれも批判しえないようにみえる観念のイデオロギー的利用者に対する懐疑の技術として見ることができる。弱者のなかにもひそむ支配欲を容赦なく抉り出し、弱者を利用する「司祭」の偽善的な支配を告発するという観点は、自らを弱者の味方の立場におく議論を問い直すヒントになるかもしれない。ただ、ルサンチマンが弱さの隠蔽と偽装に由来するとすれば、力の強弱を問題にするかぎり、ルサンチマンから根本的に脱却することは困難ではないだろうか。ニーチェ自身はルサンチマン批判を、道徳を超越して行為する強者の礼賛へと転倒させたが、それとは違う帰結を引き出すことも可能だったはずである。


弘文堂「ニーチェ事典」より引用



 
―― 以下、PANIETZSCHE ニーチェU 第八章 15.毒蜘蛛より ――

平等という毒で人間を麻痺させる毒グモ。

神の前での平等とは建て前であり、その平等には復讐心が秘められている。

他民族によって蹂躙され、囚われの身となり、奴隷として支配された悲運。

俗世での身分の差を背後世界での平等と奴隷道徳による支配へとすり替えた歴史的奇術。

人間から支配され続けた民族は神の名のもとに支配される選民(賤民)を選択した。

これが人間を数千年に及んで麻痺させ続ける毒の正体である。

水が低きに流れるように、平等とは人間を群居動物以下の生物へと導く罠であり畜群本能の極みでもある。

群居動物でさえ位階を有し優性遺伝を群れの掟とする。

超人思想は全ての人間のための指標ではない。

限られた人間のために説かれた選民思想であり、進化は常に種属の一部から生じるのである。

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