力への意志
 
 
1.〈力への意志〉の多面性

ニーチェは公刊した著作のなかで「力への意志」という言葉が最初に現れるのは『ツァラトゥストラ』第1部(1883)の「千の目標と一つの目標」で、諸民族における善悪は「その民族の力への意志が発した声」であるという一節においてである〔1-15〕。その後は『善悪の彼岸』(1886)や『悦ばしき智恵』の第5書(1887)でしばしば言及され、『道徳の系譜』(1887)の第三論文では、『力への意志、あらゆる価値の価値転換の試み』という題名の著作が予告されている〔3.27〕。のちに妹エリーザベトらは遺稿を編集して同名の書物をニーチェの「主著」として刊行したが、シュレヒタやコリ/モンティナーリが明らかにしたように、ニーチェ自身は〈力への意志〉に関する体系的な著作のプランを最終的には放棄しており、この思想に関する発言の多くは1880年代の遺稿のなかに断片として残されることになった。しかも、これらの遺稿では、自然、生、社会、認識、宗教、道徳、芸術など、じつに多様な領域にわたって「力への意志」のさまざまな形態が扱われている〔遺稿2.11.67f〕。〈力への意志〉が後期ニーチェの中心思想の一つであったことは疑いえないが、テクストの状況からしても、そこで論じられている内容からしても、これを統一的な思想として捉えることは容易なことではない。ニーチェが体系的な著作の完成を断念したのも、彼が捉えようとしたものが、それ自体でとして多面的で、従来の形而上学と同じように統一的な思想へとはもたらしえない事柄であったためではないだろうか。

その多面性はすでに『ツァラトゥストラ』第2部(1883)の「自己克服」における記述にも見られる。まず、これまで「真理への意志」であるとされていたものは、「一切の存在者を思考可能なものにしようとする意志」であり、それは事物を思考に服従させようとする「力への意志」にほかならないとされる。同様に、善や悪といった価値も「力への意志」にもとづいているとされて、あらゆる価値が「力への意志」へと還元される。さらに、あらゆる生あるものは命令と服従があり、そこに見出されるのが、「力への意志」であると言われる。つまり、強者に服従する弱者も、自分より弱い者を支配する快楽を求めようとする意志があり、また強者は危険をものともせず、自らを賭してさらなる力を求めるとされる。というのも「生」の根本にあるのは、たんなる自己保存を図る「生きんとする意志」ではなく「力への意志」であるからであり、それは「尽きることなく生み出す生の意志」として、自らが生み出したものを破壊して新たな価値を創造しようとする、というのである〔2-12〕。こうしてみると、〈力への意志〉について、次のような特徴を指摘することができよう。

すなわち、「真理への意志」も、善や悪といった道徳的価値も、「力への意志」の発現形態にほかならない(1)。そして、いっさいの生あるものは力の増大と支配を求めるものであるから、存在者全体の本質は「力への意志」として規定され、そこに新たな形而上学の可能性が見いだされる(2)。しかも同時に、「力への意志」は新たな価値設定の原理であり(3)、それはまた創造的な生産(言い換えれば「芸術」)に関わるものである(4)、ということである。

2.〈力への意志〉の偽装と支配

〈力への意志〉の思想的起源を考えるうえで重要な視点の一つは、「力への意志の形態論・発展説」としての「心理学」という構想である〔『善悪』23〕。「力への意志」という概念を語ろうとするようになる以前においても、ニーチェはすでにそこで論じられることになる事柄を考察しており、『人間的』第1部(1878)では、同情に関するラ・ロシュフコーの発言に関連して、弱い人間でも他人に同情されることで自分が人に痛みを与える力(Macht)を持っていたことを意識し、そのわずかな優越感のなかに一種の「力の感情」を覚えると述べている〔1.50〕。また、現世的な支配欲を超越しているかのように見える禁欲的な「聖者」も、自分の内部に「敵」を見いだして、それに打ち克つ残忍な「力の感情」を覚えるとしている〔同 1.141〕。「力への意志」という表現は、明らかにパウル・レーの『心理学的観察』(1875)の影響を受けて書かれた1876年末から77年夏にかけての断片〔1.8.218〕で(「力の感情」という表現とともに)初めて用いられている。他者や「内面の敵」に対する優越から生ずる「力の感情」は『曙光』(1881)でも論じられ、それを得るために人間が見いだした手段は「ほとんど文化の歴史そのもの」に匹敵するとされている〔『曙光』23.113〕。そこにはすでに後年の「系譜学」に通ずる発想も見られ、「人間は力の感情のなかにあるときは、自身を善と感じ善と呼ぶ。そして同じときに彼の力を味あわされる他の者は彼を指摘して悪と呼ぶ」という一節がある〔同 189〕。こうした考察をニーチェは、ラ・ロシュフコーなどのモラリストの「自己愛」や「虚栄心」についての洞察に負っていた。人間の心理にひそむ微妙な権力感情を抉り出す視点である。それはやがて、あらゆる道徳的価値評価は弱者がルサンチマンから強者の支配を制約しようとして設けたものであり、偽装した「力への意志」の表現にほかならないとする思考へと発展する。

他方、ニーチェ「真理への意志」も「力への意志」の偽装にすぎないとして、認識を力の問題へと還元しようとしている。この企ても、初期の学問批判以来ニーチェが問い続けてきた、真理を求める衝動の起源という問題の延長線上にあるものである。「道徳外の意味における真理と虚偽について」(1873)で彼は、真理と虚偽の区別は人間社会における便宜的な慣習にほかならないとして、「あらゆる概念は同一ではないものを同一化することによって成立する」と述べていた。そして言語はせいぜいのところ人間の事物に対する関係を示すメタファーにすぎないのに、その事情を忘却してしまった人間はあくまで真理の認識が可能であると信じている。ところが、認識もじつは生存の維持という目的のための偽装として機能しているにすぎないとしている。この考え方をニーチェは後期においてあらためて取り上げ、世界が流動してやまない〈生成〉であるのに対して、認識は事物を同一性を持った概念やカテゴリーに当てはめることによって思考可能な〈存在〉として捉え、それによって自然を支配しようとすると主張する。そして、「真理への意志」なるものは、本来とらえられないものを捉えられるものとして捏造する「欺瞞への意志」にほかならないとして、真理と虚偽のカテゴリーの差異を解消してしまう。ある遺稿でニーチェは、「真理とは、それなくしてはある特定の種の生物が生きられないような種類の誤謬である」と述べている〔遺稿 2.8.306〕。結局、認識とは「自然を自然の支配を目的として概念へと転換すること」であり〔2.7.253〕、「認識は力の道具としてはたらく」とされる〔2.11.126〕。つまり、問題になるのは真理ではなく、力の増大による支配と征服であるということになる。

こうして心理学的・認識論的還元によって、あらゆる活動の根底に飽くことなく力の増大を求める傾向は見いだされ、支配と服従は生の根本事実であって、「力への意志」こそ「存在の最も内なる本質」であると規定される〔2.11.75〕。「力への意志」は「原初的な情動の形態(Affekt-Form)」であり、「その他の情動はたんにその発展にすぎない」、「すべての駆り立てる力は力への意志であり、それ以外には、いかなる物理的、力学的、心理的力もない」というのである〔2.11.124〕。しかも、それはたんなる「自己保存」を求められるものではなく、むしろ自らを危険にさらしてでも、自己の優越、成長、拡大をめざしてやまないとされる。そしてニーチェは、さまざまな「偽装」を暴露して従来の価値評価の破壊を遂行する一方で、道徳にとらわれない「無垢」な強者の力による支配に純粋な「力への意志」の発動を見て、それを大胆に肯定する。そこから彼は、「金髪の野獣」や「支配道徳」といった言葉によって強者による弱者の搾取を正当化し、出来損ないの賤民を淘汰せよという主張まで導き出すのである。のちにボイムラーは、この思想のこうした側面を強調して、露骨な強者の崇拝こそ、教養市民の脆弱な内面性を打破し、その道徳を乗り越える「行為の哲学」をもたらすものだとして、ニーチェをナチス・イデオロギーに取り込もうとした。ニーチェもそのような解釈を許容するところがあったことは否めないが、以下で見るように、そうした解釈が〈力への意志〉の不当な一面であることもまたたしかである。

3.〈力への意志〉の形而上学

〈力への意志〉によってニーチェは、超感性的なものに真の実在性を認めて感性的な現実を貶めるという、プラトン以来の伝統的な形而上学を否定し、感性的な生の肯定にもとづいて世界を内在的に解釈する新しい形而上学を立てようとしている。これに関して、〈力への意志〉のもう一つの思想的な起源となっているのは、ライプニッツ、シェリング、ショーペンハウアーなどの意志の形而上学の伝統である。ただし、ニーチェは存在者の根本的性格を「意志」として解釈する発想は受け継いでも、それを存在の唯一の本質として実体化しようとするのではない。「身体という導きの糸」に従って考えるならば、自我の根底にはさまざまな衝動のせめぎあい見いだされ、多様な「力への意志」の複合体である人間の「意志」について単数形で語ることはできないとされる〔遺稿 7.368,377;2.9.36など〕。そして、ショーペンハウアーのいう「意志」は、「欲望や本能、衝動」を意志の本質とする根本的誤解にもとづいており、本来は個々の具体的な「力の中心」としてしか存在しえないものを、意志一般へと抽象化して空虚な言葉にしたものだと批判される〔2.10.133;11.125〕。「意志」自体について語ることは「誤った物象化」だというのである〔2.9.38〕。

それに対してニーチェは、作用するあらゆる力を「力への意志」として解釈し、多数の力の相互作用を想定して、ライプニッツのモナドロジーとも類似する構想を展開する。世界は多数の「力の中心」の対立と干渉、吸収と同化のプロセスとして考えられ、それぞれの中心は自らの遠近法にもとづく価値評価によって自分にとっての世界を表象しつつ、互いに自己の力の維持と拡大を飽くことなく欲して他の存在者を支配しようとするというのである。〔2.11.208,211〕。とはいえ、ここでも一定不変のモナドのような実体的存在が前提とされているわけではなく、それぞれの力の存在様態はさまざまに変動して増減し、相互に作用を及ぼしあう差異の関係として考えられている。他方、ニーチェは世界の本来的な存在様態を不断の〈生成〉として捉えており、この点で〈力への意志〉の形而上学の構想は〈永遠回帰〉と結びついている。すなわち、世界は一定の「力の中心」の相互作用から成り立っているのであれば、無限の時間の中ではあらゆる組み合わせが実現されうるし、またすでに実現しているはずである〔2.11.214〕。そこで彼は、「一切が回帰するということが生成の世界の存在の世界への極限的な接近であり、考察の頂点である」と述べて、「生成に存在の性格を刻みつけること──これこそが最高の力への意志である」としている〔2.9.394〕。〈永遠回帰〉こそ〈生成〉としての世界を恒常的な〈存在〉として捉える唯一の思想であるというのであろう。しかし「力への意志は存在でも生成でもなく、パトスであるということは、最も基本的な事実であり、そこからはじめて生成や作用が生ずるのである」という発言〔2.11.74〕は、ニーチェがあらゆる実体的存在の措定を排除する企図を追求して、力の差異という相互関係から生ずる作用以外に何も認めない立場に至っていたことを示している。

ヤスパースは『ニーチェ』(1935)の「世界解釈」と題する章で〈力への意志〉をくわしく紹介し、それが徹底的に内在的な形而上学として「存在の暗号(Chiffre)」を超越者なしに読み取ろうとする企てでることを指摘すると同時に、それに対して、権力闘争とは相容れない「交わり」(Kommunikation)の意味を強調している。また、ハイデガーはナチス支配下の時代に行った『ニーチェ』講義(1961刊行)において、ニーチェ解釈の課題は、存在者の基本性格としての〈永遠回帰〉の同一性を思惟することにあるとしている。そこで彼は、ライプニッツからヘーゲル、シェリング、さらにはアリストテレスに至るまで、哲学史における「意志」の思想の展開を振り返ったうえで、ニーチェはデカルトの「われ思う」を「われ欲す」に還元したが、基体(subiectum)として「自我」代わりに「身体」を置いたにすぎず、まだ「主観性の形而上学」の枠内にとどまっているとする。つまり、ニーチェの〈力への意志〉の形而上学は、デカルト以来の近代哲学の完成であり、無制約的な「主観性の形而上学」として西洋の形而上学一般の終末をなすものであるというのである。さらにドゥルーズは『ニーチェの哲学』(1962)で、差異の境位において作用する「力への意志」を、能動的と反動的、肯定的と否定的という対立概念のなかで捉えようとしている。

4.解釈としての〈力への意志〉

ヤスパースやドゥルーズ、それに最近の解釈者たちも指摘しているのは内在的な形而上学としての〈力への意志〉において、そこで「力への意志」が、力の差異による支配や征服としてのみならず、「解釈」の原理としても捉えられ、いわば〈力への意志〉の解釈学ともいうべき思想が展開されているということである。「〈いったい誰が解釈するのか〉と問うてはならない。そうではなくて、解釈すること自体が、力への意志の一つの形態として存在している(しかし一つの〈存在〉としてではなく、一つの過程として、一つの生成として)衝動として存在するのである」〔遺稿 2.9.188〕。この解釈としての〈力への意志〉は、従来の「道徳的・宗教的世界解釈」(キリスト教とプラトン主義における形而上学的世界像)が崩壊し、人間にとって世界に何の意味もなくなった状況(ニヒリズム)に直面して、それを克服するための「新しい価値設定の原理」として導入される。〈神の死〉によって、かつての神を中心とする世界観のなかで人間に与えられていた生の意味は失われてしまったが、それはまた世界というテクストにふたたび無限の解釈の可能性がもたらされたということでもある。〔『智恵』374〕。ここにおいて〈力への意志〉は、それ自体としては無意味な混沌にほかならない世界に意味を付与する原理として考えられている。あらゆる解釈は、それぞれの「力の中心」が力の増大を図るために自らの遠近法にもとづいて下す価値評価であり、それによって必然的にさまざまな「遠近法的仮象」が生ずるとされている。あらゆる認識は「力への意志」自らの目的に従って「意味を読み込むこと(Sinn-hineinlegen)」であり〔2.9.138〕、「われわれの価値は事物に解釈によって付与された(hineininterpretiert)」ものである。/いったいそれ自体における意味というものがあるのだろうか?/必然的に意味とはまさに関係の意味でありパースペクティブではないのか?/あらゆる意味は力への意志である」というのである〔2.9.134〕。ここでは解釈の真理性や客観性は問題とされず、解釈の妥当性はもろもろの解釈の間の闘争においてより広いパースペクティブに立ち、他者の遠近法を自己の遠近法に同化・吸収して、生を増進する仮象を生み出しうるということのみもとづいている。「あらゆる解釈は成長の徴候ないしは下降の徴候である。(中略)解釈の多さは力の徴しである」〔2.9.163〕。

さらにニーチェは、「解釈」としての「力への意志」を生物学的進化とも結びつけて、「力への意志」の「自然史」ともいうべきものを構想している。すなわち、人間の身体器官も、自己の生にとっての有益性にもとづいてなされた「解釈」によって形成され、さまざまな遠近法的評価を「体現」して発達してきたものであるという考え方である。「あらゆる目的、あらゆる有益性は、ある力への意志がそれほど強くないものを支配下に置いて、それに自分なりにある機能を意味として押しつけたことへの徴候にすぎない。そして、ある〈物〉の歴史、ある器官やある習慣の歴史はこのようにつねに新たになされる解釈とこじつけが続けられた結果としての記号の連鎖なのかもしれない」というのである〔『系譜』2.12〕。こうして認識や道徳あるいは宗教も、有機体の諸器官と同様に、人間という生物を維持し、自然に対する支配力を高めるために必要な条件として〈力への意志〉にもとづいて発展してきたものであるとされ、奇妙な実体化が生じている。

ところで、ヤスパースが指摘するように、〈力への意志〉は「解釈」による価値設定の原理であるとされるとともに、もしすべてが遠近法的解釈にすぎないのであれば、〈力への意志〉という思想も「解釈の解釈」として仮説的な性格しか持たないことになるはずである。ニーチェは『善悪の彼岸』において、「老練な文献学者」として物理学者たちの「へたくそな解釈の技術」を指摘し、彼らが唱える「自然の合法則性」は「解釈」であって「テクスト」そのものではないと主張している。そして現代の平等思想によって堕落させられた物理学者たちとは「まったく逆の意図と解釈の技術を持って、同じ自然から同じ現象についてまさに暴虐で仮借なく、情け容赦ない力の要求の貫徹を読み取るすべを心得た」解釈者、すなわち〈力への意志〉による自然の解明をめざす哲学者の到来を暗示して、しかも「これもまた解釈にすぎないとしたら」どうであろうかと挑発的に問いかけている〔『善悪』22〕。別のところでも、あらゆる衝動、あらゆる有機体の機能が一つの意志の根本形式に還元されると仮定するならば、作用する力はすべて「力への意志」として規定されることになるとして、〈力への意志〉の形而上学の構想に仮説的なステイタスしか認めていない〔同 36〕。実現されなかった著作『力への意志』の副題として考えられた表現の一つが示唆されているように、〈力への意志〉も世界に関する「一つの新たな解釈の試み」にすぎないということになる。とはいえ、それゆえにこそそこには、学問的な仮説とは異なって、仮象を思考し、また自らの思考の仮象性の意識によって貫かれた思想としての〈力への意志〉の特殊な性格が現れているといえるのではないだろうか。

5.芸術としての〈力への意志〉

ハイデガーはニーチェについての最初の講義を「芸術としての力への意志」と題して、〈力への意志〉において仮象と芸術の問題が核心をなすことを指摘しているが、その後の思索においてはニーチェの哲学を西洋の形而上学の完成として位置づけることに腐心して、自然支配の道具としての理性や技術という問題へと論考の重心を移し、「仮象への意志」としての〈力への意志〉という側面をほとんど取り上げていない。しかしながら、「真理への意志」における偽装の暴露と同時に「仮象」の必然性を問題にする視点は、ニーチェにおいては一貫してはたらいているものである。すでに「道徳外の意味における真理と虚偽について」においても、人間の根本衝動をメタファー(=仮象)の形成に見て、その二つの現れを学問と芸術であるとすると、自らが生み出すのが仮象であることをわきまえて仮象の産出を行う芸術の方が、それがあたかも仮象とはまったく対立する別の物であるかのようにして真理を追求する学問よりも根源的であるとする議論を行っているが、これは芸術こそ人間の「本来的に形而上学的な活動」であるとして、仮象における生の救済を説く『悲劇の誕生』の思想とも深く関わっている。後期の〈力への意志〉の思想においては、芸術における陶酔の体験を「高揚した力の感情」と結びつけて〔遺稿 2.11.191〕、美において「力の最高の徴候」を発現させる「芸術家の力への意志」について語られるが〔2.9.331〕、そこでも、芸術は本来虚構によって成立するものであるから、「虚偽と偽装の衝動が芸術家において噴き出してくる」という指摘がなされている〔2.9.409〕。すなわち、芸術においては、「真理」という偽装によらずして「力への意志」が純粋に現れてくるというのである。「〈芸術家〉という現象はなお最も容易に見通すことのできるものである。──そこから出発して、力や自然などの根本本能へ眼を向けること!また宗教や道徳の根本本能にも!」〔2.9.174〕。しかもここで重要なのは、芸術表現においては、むきだしの暴力的支配に直結してしまわない「力への意志」の発現の可能性が示されているということである。「美においてはもろもろの対立が抑制されており」、「それは力の最高の徴し、つまり、対立するものに対する力の最高の徴しである。そこにはまた緊張もない。──もはやいかなる暴力性も必要ではなく、すべてが軽やかに従い、服する。しかも服従するためにきわめて愛らしい仕草をする──これが芸術家の権力意志を喜ばせる」〔2.9.331〕。こうしてニーチェは、芸術に「生への大いなる誘惑者、大いなる刺戟剤」を見いだして〔2.12.18〕、ニヒリズムに対する「対抗運動」の展望を開こうとする。仮象による生の救済という初期のテーマが、ここでは〈力への意志〉へ結びつき、形而上学の克服と芸術による世界の意味づけ、生の価値の全面的な肯定といった事柄が一体の課題として捉えられている。この文脈においては、永遠に回帰して自らを意欲する世界という〈永遠回帰〉の思想も、世界を「自己自身を産出する芸術作品」として解釈するものとみなされる〔2.9.161〕。〈力への意志〉を原理とする世界は、永遠に自己創造と自己破壊を繰り返し、その破壊と創造の陶酔のなかで美的現象として、つまり感性的に経験される、多様で偶発的な仮象としてのみ、世界と生とは正当化されるということになる。仮象としての意志としての〈力への意志〉には、かつての「芸術家形而上学」における〈ディオニュソス的なもの〉が息づいているのである。


弘文堂「ニーチェ事典」より引用



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