遠近法主義
 
 
「生存の遠近法的性格はどこまで及んでいるのだろうか。あるいは、生存にはまだほかに何らかの性格もあるのだろうか。解釈なき生存、〈意味〉(Sinn)なき生存とはまさに〈ナンセンス〉(Unsinn)にならないだろうか、他方から言えば、一切の生存は本質的に解釈する生存ではないだろうか。」──ニーチェは『悦ばしき智恵』でこのように問いかけたうえで、人間の知性を厳密に分析し、自己吟味してもこの問題は解決されないとしている。なぜなら、「人間の知性はその分析に際して、自分自身を自らの遠近法にもとづく諸形式のもとで見るほかなく、これらの形式のなかでしか見ることができない」からであるという〔『智恵』374〕。つまり、あらゆる認識は認識する者のパースペクティヴ(遠近法)に制約された解釈にほかならず、この制約についての反省自体もまた人間の知性に特有な遠近法の制約のもとにあるので、いかなる反省によっても遠近法的解釈によって意味づけられる世界の外に立つことは不可能であるということになる。「遠近法的なもの」は「一切の生の根本条件」であるというのである〔『善悪』序言〕。

「遠近法」というと思い浮かぶのは、とりわけルネサンス以降の絵画において発展した描写の技法であるが、哲学史上では、モナドがそれぞれの視点から一つの宇宙をさまざまに表象すると説くライプニッツモナドロジーが想起される。とはいえ、ニーチェのいう遠近法主義は、ただ一つの真なる現実を前提したうえで、視点の違いによってその現実に多様な表象が生ずるとする考え方とはまったく異なっている。「あらゆる信仰、真であると思うことは必然的に誤りであるということ、これは、真の世界などというものは、まったく存在しないからである。すなわち、それはわれわれに由来する遠近法的仮象(perspektivischer Schein)である」という言葉が示している〔遺稿2.10.34〕。彼はむしろ真なる現実の存在そのものを否定し、それも遠近法的解釈にもとづいて生じた仮象にすぎないとしている。そして、それに対して、「私が理解する仮象とは、現実的で唯一の、事物の現実(Realitat)である」として、「それゆえ、私は、〈仮象〉を〈現実〉に対置するのではなく、反対に仮象を現実として受け取るのであり、この現実は、空想の産物である〈真理の世界〉への変容に抵抗するものである」と述べている〔同2.8.480〕。このように仮象と現実の差異を解消して一切は「遠近法的仮象」であるとすることによって、ニーチェは超越的な実在から出発する形而上学の解体を図るが、「遠近法」という言葉を用いるようになる以前においても、カントの認識論をショーペンハウアーを通して読み換えることによって同様の思考を展開している。『人間的』第1部では、「われわれの空間と時間の知覚」は誤謬にすぎないとされ、「悟性はその法則を自然から汲み出すのではなく、法則を自然に対して想定する」というカントの言葉は、自然が「表象としての世界、すなわち誤謬としての世界である」ことを示すものだとしている〔1.19〕。「われわれがいま世界と呼んでいるものは、一連の誤謬と空想の産物であり、それは有機的な生命体の全発展のなかでしだいに発生し、互いに結びついて成長して、いまでは過去全体の蓄積された宝としてわれわれに相続されたのである」として、ニーチェは「現象」としての世界は人間が誤った解釈を事物のなかに持ち込んで作り上げたものにすぎないとするばかりか、さらに「物自体」にも実在性を認めない〔『人間的』1.16〕。同一の事物が存在するという信仰にもとづく形而上学は「人間の根本的誤謬を扱う科学──あたかも根本的真理であるかのように扱う科学──であると呼んでさしつかえない」というのである〔同1.18〕。

遠近法的認識の問題に関してニーチェが影響を受けたと推測されるのは、ショーペンハウアーやフリードリヒ・アルベルト・ランゲ(『唯物論の歴史』)以外では、『思考と現実』(1873)で時間のアプリオリ性や表象の継起を仮定するカントを批判したアフリカン・シュピーアや、『生の価値』(1865)で人間の価値判断が感情に依存すると指摘したオイゲン・デューリングである。また、グスタフ・タイヒミュラーの『現実の世界と仮象の世界』(1882)には、世界は「つねに至るところで遠近法的に整序されて」おり、直観の形式は「遠近法主義的仮象」の形式にほかならないという表現も見られるという(テオ・マイヤーの指摘による。タイヒミュラーはバーゼル大学で同僚だったことがあり、その転任後ニーチェは哲学のポストを狙ったこともある)。ニーチェが「遠近法」という表現を用いるようになったのは、彼がシュピーアやタイヒミュラーを再読した1885年頃からであり、しかも形而上学の根本概念を「遠近法的仮象」として解体するという文脈においてである。「存在」や「実体」は経験の誤った解釈によって成立した概念であるとされ、「自己」や「主観」といった概念も「遠近法的仮象」であって、「見るときの一種の遠近法をもう一度見る行為そのものの原因として措定する」ことによって「捏造」されたものだという〔遺稿2.9.146.215〕。また、普遍妥協的な認識をもたらすとされるカントの純粋理性やヘーゲルの絶対精神は「危険な古い概念的虚構」にすぎず、遠近法においてはたらく「能動的に解釈する力」を欠いているとして斥けられる〔『系譜』3.12〕。

しかし、ニーチェはそこで新しい認識論を樹立しようとするのではない。むしろ80年代の遺稿において顕著なのは、遠近法的解釈を導くのはそれぞれの遠近法にとって特有の価値の観点であるとして、解釈の妥当性を価値評価の問題へと還元し、遠近法を「一切の生の根本条件」として実体化する傾向である。「〈本質〉や〈本質生〉というのは何か遠近法的なもの」であって、「根底にあるのはつねに〈それは私にとって何か?〉〈われわれにとって、あらゆる生物にとってなど〉という問いである」とされ〔遺稿2.9.187〕、また「存在」や「実体」という概念が必要だったのは、それらの「従来の解釈はすべて生に対して一定の意義を持っていた─生を維持し、耐えられるものにし、あるいは疎外し、洗練し、またおそらくは病的なものを分離して死滅させるものであった」という事情によるとされる〔同2.8.454〕。「善」や「悪」といった道徳的価値も「事実」ではなく、「解釈」であって、人間というもの種が自らを維持するために必要とした遠近法的評価によって成り立っていたものであるが、いまやこの遠近法は克服されつつあるとされる。他方、仮象の世界が成立するのは、「動物界のある特定の種の維持と力の増大に関して有益であるという観点にしたがって」遠近法的に見られ、整えられ、選ばれることによってであり〔同2.11.208〕、「真理とは、それなくしてはある特定の生物が生きられないような種類の誤謬である」〔同2.8.306〕とも言われる。こうした側面はプラグマチズムともよく比較されるが、ニーチェの場合、種の維持や力の増大といった結果によって価値を図るということよりも、そこで力の過剰から生み出されるのが仮象であるというところにアクセントが置かれている。これはあとで見るように、仮象の美的現象として性格とも関連する。

先に引いた仮象こそ唯一の現実であるとする断章で彼は、「この現象に対する特定の名称が〈力への意志〉であろう」と述べているが〔遺稿 2.8.480〕、この時期に計画されたが実現されなかった著作『力への意志』の副題として、「あらゆる出来事の一つの新たな解釈の試み」とか「一つの新たな世界解釈への試み」という案があるのは偶然ではない〔同 2.9.27.130〕。「真の世界」なるものは存在しないとして形而上学の解体を図ることは「ニヒリズムの最も極端な形式」〔遺稿2.10.34〕であり、そこで新たな意味づけが必要となる。その際、「世界の価値なるものの本質はわれわれの解釈にある」としてニーチェが持ち出すのが、新しい解釈による価値設定の原理となる〈力への意志〉である。「従来のさまざまな解釈は遠近法にもとづく価値評価であって、それによってわれわれは自己の生を、つまり力への意志を、力の成長への意志を保持してきた」のであり、また、「あらゆる人間の向上はより狭い解釈の克服を伴い、達成された強化と力の拡張はいずれも新たなパースペクティヴを開き、新たな地平を信じることである」として〔同2.9.156〕、ニーチェは遠近法を真理性ではなく力の増大と結びつけ、遠近法の多様性をたがいにせめぎあう力の中心の多様性と対応させる。「世界の多様性は力の問題であり」、遠近法の多様性、より多くの意味を生む解釈が可能であることこそ、「力の徴候」であるというのである〔同 2.9.163.172〕。

ニーチェの遠近法主義に対しては、遠近法は「生の根本条件」であり、あらゆる認識は「遠近法的仮象」であるという主張自体、遠近法的な見方の一つにすぎないのではないか、「真理というものはない」という主張そのものの「真理性」はどのようにして主張しうるのか、と問うこともできよう。これに対してニーチェは、「遠近法的に見ることしか、遠近法的な〈認識〉しか存在しない、そして、われわれがある事柄についてますます多くの情動を発言させ、ますます多くの眼、さまざまに異なる眼を同じ事柄に向けるすべを心得ているならば、この事柄についてのわれわれの〈概念〉、われわれの〈客観性〉はいっそう完全なものになるであろう」〔『系譜』3.12〕と述べるにとどまっている。ただ、生の遠近法的性格に関する彼の発言は、しばしば反語的な疑問や意図的な矛盾によって表現されており、彼は強い意味での客観性や真理性を要求するよりも、むしろ仮象の戯れの多様性を楽しむことを目指しているといえよう。ある遠近法の外に立つには、それを相対化しうるパースペクティヴを獲得しなければならないはずであるが、ニーチェの場合、それは真理性を問題にする視点を仮象によって相対化し、さらに仮象を生の関連において評価する視点へと移行することによって行われていた。

『悲劇の誕生』についての「自己批判の試み」(1886)で彼は、自分がかつてこの著作で捉えたのは学問そのものの問題であったが、「学問の問題は学問の地盤では認識されない」ので、「学問を芸術の光学のもとで、さらに芸術を生の光学のもとで」論じたのだと述べている〔「自己批判」2〕。ここで「光学」(Optik)という言葉は「遠近法」と言い換えてもよいだろう。真理とは生を耐えやすくする仮象の一種にほかならないのに、真理と仮象を厳密に区別して真理のみを追い求める学問に対して、仮象から出発する芸術こそ「人間の本来に形而上学的な活動」であり、「美的現象としてのみ、人間存在と世界は永遠に是認される」というのが、『悲劇の誕生』を貫くメッセージであった。「なぜなら、あらゆる生は仮象、芸術、欺瞞、光学に、遠近法的なものと誤謬の必然性にもとづいているからである」〔同5〕。「同一のテクストが無数の解釈を許容する。つまり、〈正しい〉解釈などというものは存在しない」という断片〔2.9.54〕も、仮象による生の救済というモチーフと結びつけて受け取ることができる。最初に引用した『悦ばしき智恵』374番でニーチェは、「世界はわれわれにとって、むしろふたたび〈無限〉となった、──世界が無限の解釈を内包するという可能性をわれわれが拒絶しえないかぎりにおいて──。ふたたびわれわれを大いなる戦慄が襲う」と、無限の解釈を許容する世界の崇高な美しさについて語っている。ニーチェの遠近法主義の「遠近法」は、ふたたび生を生きるに値するものにする仮象への問いに導かれていたのである。


弘文堂「ニーチェ事典」より引用



 
―― 以下、PANIETZSCHE ――

ニーチェの遠近法主義というのはフッサール現象学の起点となる「マッハ的光景」であり、唯識の「唯識無境(外界とは自己が対象化されたもの)」や「万法不離識(すべての外界は見るものの心を離れない)」とほぼ同義だろう。

世界は認識者に知覚される時点で既に色付けされている。
認識者の匂いや色眼鏡を通して世界は私たちの前に立ち現れる。
これは哲学の第一原理に比肩するくらい否定しようがない確かなことだろう。

マッハは「世界についてわれわれが知りうることはすべて、必ず感覚器官のうちに現れるものであり、われわれの感覚器官が進化すれば、いまとは違った関数的依属関係のうちにあらわれてくるかもしれない。我々の感覚器官のうちに現れるものが、それ以上還元不可能な究極的所与であり、これが世界である」と述べ、ニーチェは「われわれは認識のための、『真理』のための器官を、全く何ひとつ有(も)っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを『知る』(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである。(悦ばしき知識 第354番)」と主張する。

全く交流のなかった同時代の二人がフッサール現象学の先達となった。
ニーチェもマッハもこの誤謬(遠近法主義)上に立ち現れる現象や事物が現実であり、これまで真理と崇められてきたものは誤謬の上にさらに妄想されたものに他ならないと看破した。

私たちにとっては真理よりも現実が遠近法上の存在となる。
ニーチェは二重の妄想から現実が制約されたり、束縛されることの禍因性をもってユダヤ・キリスト・イスラム教に代表される一神教を批判した。

多様な誤謬が現実となる世界では一神教より多神教、実体よりも仮象が遠近法上の存在となり、これ以外の存在は私たちは原理的に知ることができない、つまり認識の彼方にあるかないかすらも分からない対象となる。

この天地逆さの奇術をやってのけたのがユダヤ民族であり、地上よりも天上を、生よりも死後の審判や背後世界を重視し実体とした。

死後世界や審判、輪廻転生は時に理不尽な死にとっての救済あるいは慰めにはなるが、その暗黒面として、オウムが殺人の正当性の根拠としたポアや自殺によるリセット、洗脳次第で自爆テロまで正当化し、他の選択肢と同等の価値を持つようにもなりうる。

このユダヤ民族の遠近法主義よって捏造された妄想に対して、ニーチェは「生の遠近法」を提起する。

ユダヤ人の妄想(遠近法主義)によって捏造された人神という名の妄想とその教義や道徳は、砂上の楼閣どころか、蜃気楼の落とす影よりも薄っぺらい存在である。

生に伴うあらゆる意味や価値は生に自己完結しつつ、遠近法上にさまざまな解釈という名の認識の実験をもたらす。

本来、動的でかつダイナミックな生は、決して二重の妄想によって束縛され、固定化されたり断罪されるようなものではありえない。

世界は認識によって如何様にも解釈されうるかぎり、認識者や主役である生がディオニュソス的に躍動するのである。

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