大いなる正午
 
 
1.悲劇の死とその再生の企て

『ツァラトゥストラはこう語った』は、洞窟を出たツァラトゥストラが、「これは私の朝だ、私の昼がはじまろうとする。さあ、昇れ、昇ってこい、大いなる正午よ!」と呼びかけるところで終わる〔4-20〕。ツァラトゥストラの役割は、この「大いなる正午」の到来を告知することにあると言ってよいだろう。『この人を見よ』でニーチェは、自分の使命は「人類の最高の自覚の瞬間を準備すること、人類が過去を振り返り、未来を見通して、偶然と司祭たちの支配を脱し〈なぜ?〉〈なんのために?〉という問いをはじめて全体として発する大いなる正午を準備すること」であると語っている〔『この人』7.2〕。さらに『悲劇の誕生』について彼は、「この著作から語りかけてくるのは一つ壮大な希望である。音楽のディオニュソス的未来に寄せるこの希望を私が取り下げる理由は、結局どこにもない」と述べて、かつて自分が「バイロイトの思想」と呼んだものは、ヴァーグナーに対して自分が抱いた幻想を振り切って見るならば「大いなる正午」のことであり、「この思想こそ私がこれから生きて体験するであろう一つの祝祭のヴィジョンにほかならない」としている〔同4.4〕。こうしてみると、「大いなる正午」は、世界史的転換をもたらす悲劇の再生を求める『悲劇の誕生』の思想の一貫した帰結であると言える。

『悲劇の誕生』でニーチェは、ティベリウス帝の時代にギリシアの船人が「大いなるパンの神は死んだ」という叫びを聞いたとする伝承に寄せて、「ギリシア悲劇の死とともに巨大な、至るところで深く感じられた空虚が生じた」と語っている〔『悲劇』11〕。この著作の意図は、この空虚を埋めて古代的な生の全体性を恢復すべき芸術のプログラムを示すことにあり、その実現の担い手として当時彼が期待を寄せたのがヴァーグナーであった。『バイロイトにおけるリヒャルト・ヴァーグナー』でも、「ディテュランボス的芸術家」は人間が自らふたたび自然となり、自然のなかで芸術の魔力によって変容することを教え、それによって失われた生の全体性が恢複されると説いている〔『反時代的』4.6.7〕。だが、ひとたび古代的な生の全体性が失われて、芸術が反省的な制作の対象となった近代において、もう一度芸術による全体性の恢複が求められても、そこで呼び出される古代のイメージは、かならずしも伝承をそのまま反復するものではなく、この構想はニーチェ自身の思想的展開のなかでも変化していった。

『ツァラトゥストラ』の第4部が成立した頃の遺稿を見ると、当時のニーチェが『正午と永遠。永遠回帰の哲学』という著書を計画していたことがわかる〔遺稿2.8.278;vgl.101.121.227.257.330f〕。翌年の遺稿にも「永遠回帰」という表題のもとに「決定的な時、大いなる正午」という言葉が見いだされ〔2.9.173〕、「大いなる正午」と〈永遠回帰〉の認識との間に密接な関連があることを示唆している。だが、ニーチェの〈永遠回帰〉がヘラクライトスなどの回帰思想を反復するだけのものではないように、「大いなる正午」というニーチェが近代の極点に待望する「祝祭」も、古代における正午へのたんなる復帰ではありえない。その差異はどこにあるのだろうか。また、「大いなる正午」とはそのような意味で「決定的な時」であるのだろうか。


2.ニーチェと古代的伝承における正午

古代ギリシアの伝承において、正午、とりわけ夏の真昼時は、あらゆる自然が眠りにつく時刻であるとされていた。そのまどろみの静けさのなかで、ヘカテーやニンフ、サテュロス、サイレーノスが来臨し、冥界をつかさどるブルートーやペルセポネーといった神々も来臨すると考えられていた。ニーチェの友人ローデは『プシュケー、ギリシア人の霊魂崇拝と不死信仰』(1984)でこの古代ギリシア人の信仰をくわしく扱っている。こうした神々の来訪は戦慄をもたらすものであり、そのためピュタゴラスは午後の危険を説いたという。民間伝承においては、正午に生者が眠ると、生死の境界が消滅して死者が甦ると信じられており、一日の時間の流れを円環として考えるとちょうど真夜中に相対する位置にある正午は、死者の亡霊が現れる時刻であるとされていた。

やがてヘレニズム期になると、テオクリトスからヴェルギリウスやロンゴスに至る牧歌的文学の伝統において、正午は牧神パンと結びつけられるようになった。それはパンの神が眠る時刻であり、その眠りを妨げる者があると、パンの怒りが目に見えない形で現れて人や獣を脅かすので(たとえば、獣たちが突然「パニック」を起こして暴れるのはその現われでるとされた)、正午の静寂をやぶらないように万物が眠りについたというのである。半人半獣の姿をした家畜の神パンは繁殖を象徴し、目覚めて情欲に駆られるとニンフたちを追い回したというが、同時に、「パン」はギリシア語で「すべて」を意味することから、一切の自然を統べる「大いなるパンの神」として崇拝された。ブルタルコス以来「大いなるパンは死せり」は古代の没落を意味する表現として伝承されており、ニーチェは『悲劇の誕生』以前の戯曲『エムペドクレス』草案(1870年末〜71年初頭の遺稿)でもこれに言及している。この草案の直前にある「私は、すべての神々は死すべきものであるという古代ゲルマンの言葉を信ずる」というメモ〔遺稿 1.3.170f.〕はマクス・ミューラーを読んで記したものらしいが、「ゾロアスターの宗教は、もしダレイオスが屈服させられなかったら、ギリシアを征服していたであろう」という同じ時期の断片は、後年の『ツァラトゥストラ』とのかすかな照応関係を推測させる〔1.3.146〕。

『悲劇の誕生』先立って書かれた「ディオニュソス的世界観」と「悲劇的思想の誕生」(1870)は、自然は「個体化の原理」によって引き裂かれたものを「ディオニュソス的陶酔」のなかでふたたび結びつけるとして、すでにその自然との和解を扱っている。そのような陶酔をもたらすギリシアのディオニュソス祭の様子を、ニーチェはエウリピデスの『バッコス信女たち』にもとづいて次のように描いている。一人の信者が「正午の暑熱のなかで畜群を連れて山頂に上っていった。それは見られたことないものを見るためにはまさに正しい時であり、正しいところであった。いまやパンは眠り、天空は不動の背景をなし、そして日は輝いている」。そこで天使が目にしたのは、バッコスの信女たちが杖で岩を打つと泉が湧き、地を突くとワインは吹き出し、木々の枝からは甘い蜜がしたたり、指先が地に触れると乳がほとばしるという光景である。神話の語るところによれば、アポロは引き裂かれたディオニュソスをふたたびつなぎ合わせたという。これこそ、アポロによって新たに創られ、アジア的分裂から救われたディオニュソスの姿である」というのである。〔「ディオニュソス的世界観」1〕。『悲劇の誕生』における自然との和解、アポロ的なものとディオニュソス的なものの結びつきによる仮象における陶酔と変容という考えにつながる部分であるが、それがエウリピデスにもとづいて導かれていたということは、ニーチェがエウリピデスを悲劇の衰退を招いた張本人として批判しているだけにいっそう興味深い。

古典文献学者としてニーチェは古代の牧歌的文学についても知っていたが、そこで描かれた「英雄的・牧歌的風景」を彼が実感として捉えたのは意外に遅かった。1879年のサン・モリッツ滞在に際して、「一昨日の夕方、私は完全にクロード・ロレン的な恍惚感にひたって、ついに涙を流して長いこと激しく泣いた」。「英雄的、牧歌的なものを私の魂はいま発見した。そして古代の牧歌的なものがいま一挙に私の目の前でヴェールを脱ぎ、明らかになった──いままで私はそれについて何もわかっていなかった」と記している〔遺稿 1.8.483f.〕。地中海ではなく、オーバーエンガディーンの風光明媚な景観のなかで、ニーチェは彼の「アルカディア」を発見した。「われわれもまたアルカディアにあり」(Et in Arcadia ego)と題されたアフォリズムでは、明らかにジルス=マーリア周辺を想わせる風景のなかで牛を追う「ベルガマスク生まれのような」牧人や「少年のような服装をした」少女を、意図的に古代の伝承を取り入れて描いている。夕刻5時半とされてはいるが、この「強烈な夕陽に照らされた」牧歌的風景には独特の美の予感が漂う。「すべてが偉大で、静かで明るかった。全体の美は戦慄を覚えさせ、この美の啓示の瞬間を無言で崇拝したくなるほどであった。思わず、それ以上自然なことはないかのように、この純粋で鋭い光の世界(そこは憧れたり、期待したり、前後を見たりするようなものはまったくなかった)のなかにギリシアの英雄たちを置いてみたくなるようだ」〔『人間的』2-2.295〕。そしてかつてこのように感じ、このような世界に生きた人としてニーチェはエピクロスの名を挙げるが、別のところではエピクロス的な「古代の午後の幸福」について、「そのような幸福を編み出すことができるのは、不断に苦悩する者のみである。そのような目の幸福を前にして生存の海は凪ぎ、その目はいま海面を、この多彩で繊細で震えおののく海の肌を眺めて飽きることがない。いまだかつてこれほどつつましい欲望は存在しなかった」と述べている〔『智恵』45〕。

だが、ニーチェがこうした「古代の午後の幸福」に完全に没入することはない。そこにはエピクロスの自足した視線をたどりつつ、それを見つめるもう一つの視線がある。それはさまざまな遠近法を試みては立ち去る「自由精神」の視線であり、その自在な転換が『人間的』以降の思索の特徴をなしている。彼はしばしば「曙光」「午前」「正午」「午後」「黄昏」「夜」といった一日の時間を、特定の気分や精神の階梯を特徴づける比喩として用いたが、この「自由精神」の知を「午前の哲学」と呼んで〔『人間的』1.638〕、この精神は自らの真の課題を「生の正午においてはじめて理解する」としている〔同1序言7〕。のちの『偶像の黄昏』でも、「正午、影が最も短くなる瞬間、最も長きにわたった誤謬の終焉、人類の頂点、ツァラトゥストラが始まる」と述べて、「正午」は従来の形而上学的世界観の誤謬があらわになる時であるとしている〔『偶像』4.6〕。この認識の時としての「生の正午」を、ニーチェは『漂泊者とその影』の「正午に」というアフォリズムで次のように描いている。「活動的で波乱に富んだ生の朝を与えられた者の魂は、生の正午を迎えて奇妙な平安への渇望に見舞われる」。「森のなかに隠された草地に、彼はパンが眠っているのを見る。自然の万物はパンとともに眠っており、その顔には永遠を示す表情が浮かんでいる──彼にはそう思われる。彼は欲せず、何ごとにも煩わされず、彼の心臓は止まり、目だけが生きている、──目を覚ましたままの死である。そのときこの人間はいまだかつて見たことのない多くのものを見るが、彼の見るかぎり、一切は光の網の目に織り込まれ、いわばそのなかに葬られている。そこで彼は自らの幸福を感ずるが、それは重い、重い幸福である」。そして正午が過ぎ去ったあとに、再び活動的な生の夕暮れが訪れる〔『人間的』2-2.308〕。ここでは古代的伝承にもとづいて時間の静止と永遠性を帯びた静けさが描かれているが、同時にそれは一人の個人が「目を覚ましままの死」という生の中間点における危機を経て新たな認識を獲得し、「重い幸福」に至る転換の時としても描かれている。このようにニーチェのテクストにおいては、古代のイメージと近代の美的経験がたくみに織り合わされており、『悦ばしき智恵』の「プリンツ・フォーゲルフライの歌」の詩篇でも、牧歌的風景を描きながら、正午における一瞬の美的戦慄をいっそう強調している。「時間も空間も死に絶えた真昼時、/ただお前の眼だけが──すさまじく/おれを凝視する──無限よ!」と謳う「新しき海へ」に続いて、「ジルス=マリーア」では「すべてが戯れであった。/すべての湖、すべての正午、目標を持たない時間であった。/そのとき突如として、女友(とも)よ、一が二となった、/──ツァラトゥストラが私のかたわらを通っていった…」と、ツァラトゥストラの到来が告げられる。『善悪の彼岸』に付された詩「高き山より」でも、「生の正午!第二の青春!時がきた!」と、ツァラトゥストラの到着が華々しく祝われている。回想と熟考の時であった正午は、ツァラトゥストラの登場とともに、決定的な事件を予告する時へと変化する。


3.『ツァラトゥストラ』における「大いなる正午」

『ツァラトゥストラ』にも古代的伝承を想わせる「正午」の描写がある。第四部で、地上から俗っぽい訪問者たちにうんざりしたツァラトゥストラは、正午に老木のかたわらで眠り込むが、魂はめざめたまま、彼は夢うつつのうちに自分の魂との対話を交わす。「おお、幸福!おお、幸福!おまえは歌いたいのか、私の魂よ?草のなかに横たわって。だが、いまは牧人もその笛を吹かない、ひそやかでおごそかな時刻だ。/おそれるがいい!熱い正午に野にまどろんでいる。歌うな!静かに!世界は完全だ!」「古代の午後の幸福」への誘惑、牧神の眠る古代的な生の幻影が彼をとらえそうになる。「老いた正午はまどろんでいる。彼は口を動かす。幸福の一滴をまさに飲もうとするのか?──/──至醇の幸福の、至醇の葡萄酒の、古い濃い紫金の一滴を?」「ほんのわずかのものが至高の幸福を生み出すのだ。筋かに!/──私はどうなったのだろう?聞け!時間は飛び去ったのだろうか?私は落ちたのではないか?聞け!──永遠の井戸のなかへ?」だが、このまどろみのなかで心臓が裂けるかのような幸福を味わったツァラトゥストラは、やがて「異様な酩酊」から醒めたかのように起き上がる〔4-10〕。ツァラトゥストラにとって、世界が完全なものとなって時間が静止するという古代的伝承に沿った正午は、「酩酊」のようなまどろみをもたらすものではあっても、もはや「異質」なものとなっており、そのまま反復されうるものではない。パンが眠り、あらゆる生命あるものが活動を止めて休む時である古代の正午が、回帰する時間のなかでくりかえされる出来事であり、本質的には何も新しいことは起こらない自己完結的な世界のあったのに対して、ツァラトゥストラが迎えようとする「大いなる正午」は、そこでまったく新しいことが明らかにになる「決定的な時」、「最も豊穣なる解明の時」なのである〔遺稿2.9.171.173〕。

シュレヒタが指摘しているように、このような時間概念は古代の異教的伝承の根ざすものではなく、むしろユダヤ・キリスト教的な終末論に近い。レーヴェットも、ツァラトゥストラの正午は、古代的な生の全体性への帰還よりも預言者や使徒が説く審判の日に似ているとして、「古代人の目で見れば、〈大いなる正午〉は節度を欠いた冒涜である」というシュレヒタの言葉に賛同している。それは、「大いなる正午」は「炎の舌」によって告知され〔『ツァラトゥストラ』3-5-3〕、それに先立つ「火の柱」は町を焼き尽くす〔同 3-7〕とか、「いまや昼が、変転が、裁きの剣が、大いなる正午にやってくる。そこで多くのことが明らかになるであろう!」〔同 3-10.2〕などいった黙示録的表現からも明らかである。ただし、このもう一つの「終末」がもたらすのは、キリスト教的価値は支配する歴史の終焉である。すなわち「大いなる正午」は、キリスト教的な世界解釈がもたらした〈ニヒリズム〉という困難(Not)を転回させる(wenden)必然的な出来事(Notwendigkeit)であって、しかもその必然性をわれわれは意志しなければならないとされるのである〔同3-12.30〕。「大いなる正午とは、人間がその道程の中間において動物と超人との間に立って、夕べに向かう自分の道を自分の最高の希望として祝い讃える時である。それは新しい朝に向かう道でもあるからだ。/そのとき、没落する者は彼方へ超えてゆく者として自己を祝福するであろう。そのとき、彼の認識の太陽は彼の真上に、天空の中心にかかっていることであろう。〈すべての神々は死んだ。いまやわれわれは超人が生まれることを願う〉─これを、いつの日か大いなる正午が到来したとき、われわれの最後の意志としよう─」〔同1-22.3〕。ここでは人間以前の存在への頽落と〈超人〉への上昇との間の「中間」という危機の瞬間にあって、人間が最高の認識のもとで〈超人〉への道を行くことを決断することが求められている。それによって、「正午」の瞬間は「新しい朝」への移行となり、〈超人〉への決断は〈永遠回帰〉への意志と結びつけられる。「大いなる正午」は、そこでくりかえし回帰するものが現れるがゆえに永遠なのではなく、その瞬間において永続的な決定がなされるがゆえに永遠性を持つのである。

「快癒する者」の章では、「永遠回帰の教師」であるツァラトゥストラの教説を鷲と蛇が次のように語る。「生成の循環が行われる大いなる年、途方もなく巨大な年がある。それは砂時計にも似て、くりかえし新たにひっくり返さなければならない、それによってまた新たに時が流れ落ち、流れ去るように」。「私はふたたび来る。この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。──新しい人生やより良い人生、あるいはよく似た人生に戻ってくるのではない。/──私は永遠にくりかえし、細大もらさず、まったく同一の生に戻ってくる、くりかえし一切の事物の永遠回帰を教えるために──/──くりかえし大地と人間の大いなる正午について語るために、くりかえし人間に超人を告知するために」〔3-13.2〕。「大いなる正午」は〈永遠回帰〉が人類によって感得される高揚した瞬間である。しかし、すべてが同一のものとして回帰し、卑小で嘔吐をもよおさせるような人間や事物さえもが回帰するというこの思想の恐るべき含意は、戦慄をもたざるをえない。それにもかかわらず、この回帰を肯定し、円環を意志させるのは、真夜中という正午と照応する時刻に感得される「悦び」の永続性への願望である。「いままさに私の世界は完全になった。真夜中はまた正午なのだ─」「すべての快楽は永遠を欲する」〔同4-19.10〕。ところで、円環の頂点においては永遠に接する正午というイメージは、ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』で時間を円環になぞらえ、意志が沈むことのない太陽として描いている箇所を想わせる。「地球は回転して昼から夜となり、個体は死んでいく。しかし、太陽そのものは休むことなく灼熱して永遠の正午に燃え立っている。生きんとする意志にとって生ほど確実んばものはなく、生の形式は終わることを知らない現在である」というのである〔第54節〕。しかし、ショーペンンハウアーの「永遠の正午」が時間に制約されない根源意志の絶対的な現在性を示すものであるのに対して、ニーチェの「大いなる正午」は、この瞬間に〈永遠回帰〉を意志することによって生のあらゆる瞬間に永遠性の刻印を押そうとするものである。それはまた、彼がディオニュソスの名と結びつけて語る生の肯定の定式である。のちに彼は『ツァラトゥストラ』について、「〈ディオニュソス的〉という私の概念はこの作品において最高の行為となった」と述べている〔『この人』9.6〕。


4.ディオニュソスの到来

「大いなる正午」との関連で「ディオニュソス」について語られるとき、そこにはいくつかの複合した契機が見いだされる。その一つは、キリスト教と「ディオニュソスの教え」を対置して、終末論を転倒させるかのようにして「ディオニュソスの到来」を待望する歴史哲学的な構図である。『道徳の系譜』でニーチェは、「われわれを従来の理想から救済すると同時に、この理想から必然的に生じたもの、すなわち大いなる嘔吐と虚無への意志とニヒリズムから救済するであろうこの未来の人間、意志をふたたび自由にし、大地にその目標を与え、人間にその希望を取り戻す、この正午と大いなる決定の鐘、このアンチクリストにして反ニヒリストである者、この神と虚無との克服者──いつの日か彼は来るにちがいない…」と述べている〔『系譜』2.24〕、この発言は「大いなる正午」における反キリスト教的終末論を、いっそう明瞭に預言的な口調で表明している。その後はさらに、〈超人〉への決断を強者の生の賛美と結びつけて、人類の訓育と弱者の根絶のうえに「ディオニュソス的状態」の再現を期待する思考も現れる。とはいえ、そうした「地上における生の過剰」の追求が目的とするのは、同じところで「私は悲劇的時代の到来を約束しておく。すなわち、生を肯定する最高の芸術である悲劇が、やがてふたたび誕生するであろう時代である」と言われているように、初期における芸術による生の革新のプログラムがめざしていた悲劇の再生である」〔『この人』4.4〕。1885年のある断片でニーチェは、ディオニュソスの教えにしたがって、「自らの内に南方を再発見し」、「南方的な健康と魂の隠れた力をふたたび獲得する」ことによってキリシア的なものを見いだそうとする者は、「新たな日」に出会うかもしれないと述べている〔遺稿2.8.514〕。

悲劇の再生の企ては、また終末論の反キリスト教的反転にとどまることもなく、新たな世界が美的に啓示される瞬間としての「大いなる正午」へと転換したと見ることができよう。「大いなる正午」はその瞬間における美的啓示の衝動や重大な転換に伴う戦慄によって鮮烈なイメージを与えて、その後多くの文学者や芸術家、思想家の心を捉えた。世紀末に生の躍動を賛美したユーゲントシュティールを代表する雑誌の一つは『パン』と名づけられ、その創刊号(1895)には『ツァラトゥストラ』の一節が掲載された。やがて20世紀のアヴァンギャルドは突然の衝撃に新たな美を見いだす美学を発展させた。決断の時における戦慄の経験に例外的な美を見いだすユンガーや、「歴史の正午」に閃くアクチュアルな過去のイメージを探るベンヤミンにおいて、美的啓示の瞬間への感性はそれぞれに独特の現れ方をしている。ニーチェの「大いなる正午」は、こうした広い意味でのモダニズムの美的心性に連なるものであった。


弘文堂「ニーチェ事典」より引用



 
―― 以下、PANIETZSCHE ニーチェU 第十章 9.大いなる正より ――

正午とは最も影が短くなる時である。
影とはプラトンが「洞窟の比喩」において語ったところの影でもある。

プラトンによれば「我々は入り口に背を向けて手足を縛られた囚人であり、我々は我々の背後にあるイデアが照らすことによって洞窟の壁に映し出される影を見ているだけに過ぎない。

そしてその呪縛から解放された時、これまで我々が見てきた世界がイデアの似像であることに気づき、イデアそのものの世界である外界(洞窟の外)へ思惟をめぐらせることによって太陽へと向かう」らしい。

ニーチェによれば、このイデアの世界こそが背後世界でもあり夕暮れたるプラトニズムである。

このプラトニズムはユダヤ、キリスト、イスラム教にまで、何千年にも及ぶ長い影を人類に落としている。

否!僧侶階級が創出した影によって、彼らを含む人間が自ら好んで自らを呪縛しているのだ。

本来、無垢であるはずの生を断罪し汚名をきせた上で救済という名のもとの福音を与える。

健常な人を診断し、病人に仕立て上げておいて、治療を施し、薬を与えているようなものだ。

プラトンが太陽としたイデアは似非太陽であり、洞窟に投影された陰とは、太陽によって光を与えられる月がもたらすところのものでしかなかった。

背後世界主義の唱える哲学や宗教が「夜の哲学」であるのに対して、ニーチェが提起した「生の哲学」を「正午の哲学」と呼ぶ。

「没我」とは己を奴隷にしてイデアに服従することであり、「我欲」とは最も人間的な「力(権力)への意志」であり「肉欲」「支配欲」もこれに同じである。

「力への意志」とは自由意志が持ちえるところの進化に向かう生のベクトルであり、その意味において、これまで最もひどい評判を立てられた「肉欲、支配欲、我欲」の意ではない。

三つの欲とは「我欲する」ところの欲であり、重力の精との闘争である。
その闘争によって、大いなる正午がやって来るのである。

大いなる正午とは人間により人間のための人間の正午であり、同時に超人が誕生する時でもある。

人間の正午は未だ遥かに遠い。

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