狂気の人 (精神病と死)
 
 













 
「…私が世界を創造するという退屈を大目に見てきたのは、一つの小さな冗談でした。ところで、あなたは――君は――私たちの偉大にして最大の教師です。というのも、私はアリアドネと一緒に、すべての書物の黄金の均衡を示していれば十分なのであり…」

「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔にされました。ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」

バーゼル大学でニーチェの同僚であったヤコブ・ブルクハルトは、1889年1月6日、トリノに在住していたニーチェから一通の書簡を受け取った。
ブルクハルトはニーチェの狂気の兆候を認め、直ぐにオーヴァーベックを訪ね対策を講じるように忠告する。
元々ニーチェには年末から年初にかけて毎年のように情緒が不安定になる傾向があり、この時のオーヴァーベックは、さほど注意を払おうとはしなかった。


しかし、翌7日、オーヴァーベックにもニーチェから同様な手紙が届く。
「…僕はちょうど、反ユダヤ主義者どもを射殺させようとしているところだ。ディオニュソス。」


ただ事ではないことを察したオーヴァーベックは、その日の夕方トリノ行きの夜行列車に乗り込み、1月8日午後トリノに到着、ニーチェの下宿に直行した。
ニーチェは、オーヴァーベックを見て、涙を流したと伝えられている。

また、別の不確かな証言によると、1月3日の夕方、散歩の途中で馬車屋の前で馬が御者に鞭打たれているのを目撃し、これに同情して泣きながら馬の首に抱きつき、そのまま昏倒したという逸話もあるが、それを証明するものは何も残っていない。


ニーチェが書簡を送ったのは上記2名だけではなく、例えば、コジマ・ワーグナーへは、
「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」
と書いている。


さて、オーヴァーベックは1月9日午後、ドイツ医師とともにニーチェの両脇を抱えながらトリノ駅に到着。
そのままバーゼル行きの夜行列車に乗り込み、翌10日早朝、バーゼル大学付属の精神病院「フリードマット療養所」へ向う。
ニーチェとオーヴァーベックの共通の友人である精神科医でバーゼル大学教授のルートヴィッヒ・ヴィレが、事前に連絡を受け、ニーチェの治療を引き受けることを約束していた。


療養中のニーチェは、一枚のスケッチを描いた。
それはルツェルンのライオン記念碑を90度右に倒した絵であった。
ルー・ザロメに求婚した場所である。


数日後、ニーチェの母フランチェスカがバーゼルに到着。
オーヴァーベックが反対する中、ナウムベルグに近いところにニーチェを移すことを希望してたフランチェスカは、イエーナ大学教授オットー・ビンスヴァンガーの元へニーチェを連れて行くことになる。

1月17日、ニーチェはフランチェスカとともにバーゼルを離れた。

その後精神の改善はなされず、1889年、ニーチェの執筆活動は終わりを告げる。
このとき、ニーチェ45歳。




イエーナ大学付属病院に1年数ヶ月ほど入院したニーチェは、回復の見込みがないことを宣告され、1890年5月、母フランチェスカとともにナウムブルグへ戻る。


ニーチェの病状は、ゆっくりと、しかし確実に悪化し、やがて麻痺は全身に及ぶようになり日常生活にも支障をきたすようになった。
オーヴァーベックとガストはニーチェの未発表作品の扱いについて相談しあった。
1889年1月には『偶像の黄昏』を刊行、2月には『ニーチェ対ヴァーグナー』の私家版50部を注文。
またオーヴァーベックとガストはその過激な内容のために『アンチクリスト』と『この人を見よ』の出版を一時見合わせた。
皮肉なことに、この頃からニーチェの名は次第に知られるようになり、最初の著作集の刊行も始まる。
ニーチェが待ち望んでいた反響も、真面目な批評の形で徐々に発表され始める。
しかしニーチェ自身は、もはやそれを見ることはできなかった。

1893年、エリーザベトが帰国。パラグアイでの事業に失敗した夫が自殺したためである。
彼女はニーチェの著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を振るうようになった。


その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。


1896年までナウムブルグで療養し、1897年に母フランチェスカが死去、妹エリーザベトがナウムブルグに設立した「ニーチェ・アルヒーフ」を前年にヴァイマールに移しており、同地へ移住する。
この地で、ニーチェは生涯を終えることとなった。


1900年8月25日、肺炎のため死去。
55歳の生涯を閉じた。


故郷レッケンの墓地に埋葬。


ニーチェの精神錯乱、および進行性の麻痺の原因について、確実なことは何もわかってはいない。
20世紀前半までは「梅毒説」が有力だったが、この梅毒を原因とする精神錯乱の場合は、ほとんどの患者が3年以内に死亡しているのにもかかわらず、ニーチェは11年生きている。
またニーチェの兆候は梅毒の症例とは矛盾しているところも見られた。
ある研究者によると脳腫瘍であり、ある研究者によると1889年1月以前に既に狂気の兆候を示していたとも言い、またある研究者は生まれたときに既に潜在的に狂人であったとまで主張し、ジョルジュ・バタイユやルネ・ジラールなどのように、ニーチェの狂気は彼の哲学によってもたらされた精神的失調だと考える者もいる。

ヨアヒム・ケーラー『ニーチェ伝』によれば、ニーチェは戦争で負傷した傷を癒すために大麻を常用し始め、中毒性が進行し、より濃厚な薬物に依存することで思考発想的にもハイになる魅力にとりつかれ、既に回復不能なほど脳は重篤な障害状態にあったのではないかと書かれている。


ニーチェの発狂の原因の調査は、長い間、ニーチェを誹謗し中傷する試みと一体をなしていた。
ニーチェ思想は無価値だとして、狂人の戯言と置き換えられることが多かったからだ。



偶然にも、ニーチェが執筆活動を終えた1889年には、次世代哲学界の中心を担う、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、マルセルらが生まれている。


1901年 『権力の意志』初版公刊

1906年 エリーザベトが編集参加し、大幅に増訂された『権力の意志』公刊

1908年 『この人を見よ、いかにして人は本来の自分になるか』公刊

1933年 ヒトラー、首相に就任

1934年 『歴史的・批判的全集』刊行開始

1935年以降、エリーザベトが死去すると彼女による書簡の偽造が徐々に確認され始める。


また1954年には、カール・シュレヒタが編集したニーチェ選集(シュレヒター版)において、エリーザベトによる書簡の偽造と『権力の意志』の捏造が暴露された。




(参考文献・一部引用文:清水真木著『知の教科書「ニーチェ」』、ウィキペディア『フリードリヒ・ニーチェ』)

(写真提供:ぐちゃ&らみ 2007年5月撮影)

ニーチェ像(ニーチェハウス現地撮影)



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