三段の変化
 
 
ツァラトゥストラの教説は「精神の三段の変化」を説くことから始まる〔『ツァラトゥストラ』1-1〕。三段の変化とは、精神の段階を駱駝・獅子・幼子に譬え、精神が駱駝となり獅子となり幼子となる変化を綴ったもの。
自己を超克しゆく人間の精神の道程が暗喩されている─駱駝の精神は、重荷を背負うような神聖な義務を担う逞しい精神である。「畏敬の念」に満ちたこの精神は、「汝なすべし」という義務の観念を神聖なものとして愛しつつ、駱駝のごとく砂漠へと急ぐ。だが荒涼たる砂漠に踏み入ると、駱駝の〈忍耐づよい精神〉は獅子の〈自由なる精神〉に変じる。獅子は、「汝なすべし」という義務の観念に向かって「聖なる肯定」を突きつけ、「我は欲する」と叫ぶ。
だがこの精神は「新しい価値を築くための権利」を得るがそれを創造するだけの力はない。自由を得た獅子は、さらに創造に遊ぶ幼子にならねばならない。
「幼子は無垢、忘却、そしてひとつの新たな始まりである。自ら回る車輪、始源の運動、そして聖なる肯定である。/…創造の戯れには、…聖なる肯定が必要だ。…世界を喪失した者がおのれの世界を獲得するのだ」。
「英知への道」と題した遺稿には、三段の変化と重なる「道徳克服のための指針」が描かれている。第一歩が、尊敬に値するいっさいの重みに耐える「共同体の時代」ならば、そのいっさいを打ち砕く自由な精神の「砂漠の時期」が第二歩である。そして第三歩は、頭上にいかなる神も戴かない創造者の本能、「大いなる責任と無垢」の時代が訪れる〔遺稿2.7.211〕。三段の変化が興味深いのは、この変転がさながらニーチェ自身の思想的歩みを暗喩したように読めるからだろう。
レービットは、ニーチェの著作の時期区分をこれに対応させ、『悲劇の誕生』と『反時代的考察』の初期をヴァーグナー、ショーペンハウアーを崇拝した敬虔な精神の時代、『人間的』から『悦ばしき智恵』の中期を自由精神にもとづく「午前の哲学の時代」、そして『ツァラトゥストラ』に始まり『この人を見よ』で終わる後期を永劫回帰の教師となる「正午の哲学」の時代としている。


弘文堂「ニーチェ事典」より引用



 
―― 以下、PANIETZSCHE ニーチェU 第十章 25.三変化と運命愛より ――

駱駝は「汝なすべし」という定言命令(自己に課せられた責任や義務)を背負い、力強い足どりで荒涼とした砂漠を孤独のうちに歩み行く強靭な精神の象徴。

強靭な精神はこれに飽き足らず、持て余す力から「我欲す」という雄叫びとともに自己を束縛するありとあらゆるものへの闘争(自己超克への闘争)に挑み続ける獅子に変化する。

既成概念や既存価値の象徴「黄金の竜(キリスト教的善悪二元論道徳や、精神の創出者にして大いなる理性であるところの身体性を否定するかのような禁欲主義など)」との闘争によって、打ち克った自由を謳歌しつつ、なおも創造の遊戯を続けるためには忘我のまま無垢なる遊戯に高じる子供となる。

無邪気や忘却や遊戯は忘我(無我夢中)のままの無垢なる戯れを意味する。

無垢なる戯れとは、世界を認識し、意味や価値を自らの生の遠近法上に付与する主としての創造の遊戯、ニーチェが言うところの認識の実験たる創造的な生そのものである。

創造の遊戯によって自らが創出した世界には、何ものも自己の対立物は存在せず、自己存在と万物の存在が渾然一体となり「然り!」という「一つの神聖な肯定」を発するに至る。

トップダウン的に与えられていた世界や生の意味や価値は神の死によって喪失するが、主を失った精神が三つの変化を経て自分の世界をかちとり、全肯定する運命愛へと帰結する。

牧師の長子として生まれ、アンチクリストを経てディオニュソスへ

ニーチェの生涯は精神の三変化そのものである。

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