第十三章 ヨーロッパの龍樹
16.仏教理解(2)
Nietzsche諦念の人。──諦念の人とはどんなことをするか?彼はより高い世界をめざして努力する、あらゆる肯定の人間たちよりも一そう遥かに一そう遠く一そう高く飛翔しようと欲する。──この飛翔を重くするような幾多のものを彼は投げすてる、そのなかには彼にとって無価値ではないし気に入らぬでもない多くのものがふくまれている。彼はそれを高きへ飛ぼうとする熱望のため犠牲にするのだ。この犠牲、この放擲こそまさに、彼の目立って見える唯一のものである。それがためにひとびとは諦念の人という名を彼にあたえる。このような者として彼は、頭巾つき法衣に身を包んだ換毛自在な精神のように、われわれの前に立つ。彼がわれわれに与えるこの印象に、おそらくきっと彼は満足しているであろう。彼は、われわれを超えて飛翔し去ろうとする自分の熱望・誇り・意図を、われわれの目に見えないようにしておこうとする。──そうだ!彼はわれわれの思ったより遥かに賢く、そのうえわれわれに対してははなはだ丁寧である──この肯定の人間は!というのは、彼は諦念をいだきながらもわれわれと同じく肯定の人間だから。(悦ばしき知識 第27番)

犠牲としてのペシミスト。──生存に関わる根深い不快感が蔓延するとことでは、一民族が長期にわたって犯してきた食養法上の誤りの諸影響が明るみにでる。そのように仏教の伝播(その成立ではなく)は、大部分のインド人の過度の、ほとんどそれだけを主食と、それが原因となって生じた一般的な無気力とに、よるものである。(悦ばしき知識 第134番)

仏教とキリスト教という二つの世界の発生原因、なかんずくその急激な伝播の原因は、法外な意志の病化のうちにあったかもしれないということが、推測されるであろう。そして、事実そのとおりであった。(悦ばしき知識 第347番)

神との神秘的合一を願うのは、仏教とが無へ、涅槃へ行きつこうとする願いと同じものなのだ。(道徳の系譜 第一論文 第6番)

キリスト教をこのように断罪したからといって、私がこれに似た一つの宗教、信者の数ではキリスト教を凌いでさえいる宗教、すなわち、仏教に対し、不当な仕打ちをしたと思われては不本意である。両者はニヒリズムの宗教としては同類であろう。──ともにデカダンスの宗教である──が、まことにきわだった仕方において互いに袂を分かっている。今、この両者の比較対照が可能であることに対し、キリスト教の批判者は、インドの学者に深く感謝している。──仏教は、キリスト教に比べ百倍も現実主義的だ。──仏教は、問題を客観的に、冷静に提出する者からの遺産を身につけている。仏教は、幾百年とつづいた哲学運動の後に出現しているのだ。「神」という概念は、出現当時すでに、始末がついている。仏教は、歴史がわれわれに示してくれる唯一の、真に実証主義的な宗教だ。(アンチクリスト 第20番)

ヨーロッパは仏教を受け入れるまでにはまだまだ成熟していない(力への意志 第22番)

仏教対「十字架にかけられた者」。──ニヒリズム的宗教の内部でもキリスト教のそれと仏教のそれとはいぜんとして鋭く区別される必要がある。仏教のニヒリズム的宗教は、美しい夕を完結した甘美や柔和を表現する、──それは、おのれに欠けたもの、すなわち、辛辣さ、幻滅、怨恨をふくめてのおのれが背後にしたすべてのものに対する感謝であり、──結局は高い精神的な愛である。哲学的矛盾をみがきあげることなど仏教の背後にしてしまったものであり、それにもわずらわされず安息してはいるが、しかし仏教は、その精神的栄光と落日の燿光をやはりこのものからえたのである。(──最上層階級からの血統──。)(力への意志 第154番)

キリスト教の心理学的問題によせて。──駆りたてる力は残されている。それはルサンチマン、民衆の反逆、出来そこない者どもの反逆である。(仏教の場合はこれと異なる。仏教はルサンチマン運動から生まれたのではない。仏教は、ルサンチマンが行為へとかりたてるがゆえに、このものと戦う。)(力への意志 第179番)

おそらく仏教徒の最も骨折ったのは、敵対感情の気力をくじき、それを弱体化せしめることであったであろう。ルサンチマンに対する闘争がほとんど仏教徒の第一の課題であると思われる。(力への意志 第204番)

仏教が実在性一般を否定したのは(仮象=苦悩)完全に首尾一貫している。すなわち、「世界自体」が、証明されず、到達されえず、範疇を欠くとされているのみならず、このものの全概要を獲得せしめる手続きが誤っていることが洞察されている。「絶対的実在性」、「存在自体」は、一つの矛盾なのである。生成の世界においては「実在性」とは、つねに、実践的目的のための単純化であるか、機関の粗雑さにもとづく迷妄であるが、生成のテンポにおける差異性であるかにすぎない。論理的に世界を否定してニヒリズムにおちいるのは、私たちが存在を非存在に対立せしめざるをえず、「生成」という概念が否認されることからの帰結である。(「何ものか」が生成する。)(力への意志 第580番)
Panietzscheキリスト教がルサンチマン運動から生じた信仰である一方、仏教はルサンチマンに対する闘争手段として諦念を選択したニヒリズムの宗教としている。
両者の伝播は無気力と法外な意志の病化が原動力となりながらも、仏教的な実践はルサンチマンに対する闘争でもあり、苦悩や自己、意志を放擲することによって諦念の人となり、無(涅槃)へ行きつこうとする教義と捉えている。

ニーチェは仏教に親近感を抱きながらも、ショペンハウアーのデカダンスを通じて捉えており、ヴェーダーンタ哲学や上座部仏教もしくは原始仏教の一部の教義には通じていたようだが、初転法輪で説かれたとされる四諦八正道や大乗仏教の空観は知らなかったようだ。

仮にニーチェが中論や空観、四諦八正道や相依性縁起を知っていたなら自身の哲学との類似性に驚いていたに違いない。

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